戦争体験記「記憶」〜第3章「軍隊」
「一兵士の戦争体験」
弘津庄一郎
体験記録−10

 50年前の今ごろ(5月)は、ベンガル湾を指呼の間に望む北アンダマンのスチュワードサウンド島の守備隊にいて、塹壕ほりと食糧確保に明け暮れていた。時おり思い出したような英軍の艦砲射撃に見舞われたが、なぜか上陸しては来なかった。もし上陸されたら人員不足の一個中隊と重機一個小隊の兵力では一たまりもなく玉砕していたであろう。英軍は日本軍の守備力を過大に評価していたようだ。
 この島には海軍の通信兵がいたので情報は早く、8月15日の戦争終結の時もいち早くキャッチしてくれたものだ。翌朝の点呼で中隊長の訓辞があったが、点呼に出なかった古年兵の一人が小銃で自殺、どうやら前途をはかなんでのことらしい。
 中隊では戦病死の扱いで火葬にしたが、赤道直下のアンダマンで完全軍装の屍衛兵を務めた。8月末には住民の水田を召し上げて植えた稲の収穫を見ないまま持ち主に返して島を離れた。中アンダマンのポートブレアにアンダマン全島から集結した各隊は、上陸して来た英軍の武装解除を受け、38式歩兵銃の菊の紋章を削り焼却させられた。
 それからは毎日、英軍物資の揚陸作業に働かされた。この頃、マラリアにかかり全治したのは復員後しばらくしてからだった。その他にも脚気、疥癬、水虫、慢性下痢などいろんな病気につき合わされた。体調は悪いが何とか英軍の労務作業についていった。
 10月の或る日、東京の母から3月5日付けの便りが届き、元気でいるとあったが、実は、葉書を出した5日後の3月10日、あの東京大空襲で母、2人の妹、弟の4人が非業の死を遂げていたのだがその時は知る由もなかった。何しろ内地からの手紙などは半年から1年近くもかかっていたから、どうしようもなかったのである。
 アンダマンは流刑植民地といわれていた。ブレアには頑丈な刑務所があって清掃作業に行ったこともある。第一次世界大戦で捕虜になったドイツ軍兵士につくらせたという道路も残っていて、苛酷な労働で多くのドイツ兵が命を落としたといわれている。しかし日本人には扱いが違ったようで幸運だったと思う。
 昭和20年の暮れも押し詰まって、シンガポールの南方海域にある無人のレンパン島に移ることになり、アンダマンを離れた。
 無人島だから寝るところも食べ物もないわけで、掘っ立て小屋を建て食糧は自給自足になる。砂地を焼いて焼き畑農業も体験した。
 有り難いことに熱帯地だから生育は早く胡瓜などはすぐ獲れた。こんな中で一日一缶支給される英軍の携帯口糧にはタバコもついていて兵達を喜ばせてくれた。
 寝るところはできたが食べ物には困った。
 汁ばかりの雑炊を中隊全員の目の前で公平に分け、納得してから食べた。
 或る雨上がりの朝、食事受領の途中、坂道で転びかけ、我慢して中味をこぼさなかったが、体がかしいで雑炊が少しこぼれ左肩から手の甲に火傷して入院する羽目になってしまった。普通の軍隊生活ならば入院は歓迎だが今は違う。復員船がいつ来るのかも分からないのだから、のんきに入院なぞしていられない。強引に退院許可を取り帰隊した。
 待望久しい復員船に乗り、レンパン島を出帆したのは5月13日。帰心矢の如し。日本の本土に近づいて黒々とかすむ山脈が視野に入ったとき、中国の詩人が詠んだ「国敗れて山河あり」の詩がうかび、思わず目頭が熱くなった。名古屋に入港したのが5月21日。ここで部隊は解散、耳なれない新円の証紙を貼った金200円也を戴いて引揚列車で東京へ、国電の錦糸町駅下車。瓦礫野山には目もくれず、母の待つ深川高橋の我が家へ。17年10月に入隊いらい3年8ヶ月ぶりに帰り着いて驚いた。何もない。焼け落ちたままの瓦礫だけ。母や妹弟はどうしたのだ。
 気をとり直して入隊前、町会長をされていた人を訪ねて事情を聞こうとしたが、顔に大やけどの跡の残る町会長は名簿をのぞいたまま一言も発しない。ずいぶん長いと思われる時間、沈黙したままだった。やっと顔を上げた町会長は低い声で話し始めた。私にもさすがにその時は理解はできて、黙って町会長宅を出て歩きだした。
 不思議にも涙も出なかった。歩き出して、どこを歩いたかも憶えてないが、何か頭の奥がもやもやしたなと思った途端、涙があふれ出して来て、どうにもならなくなっていた。
 そのまま涙をながしながら、いつまでも、いつまでも歩き続けた。



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