戦争体験記「記憶」〜第3章「軍隊」
「忘れじ軍隊の悪夢」
北村明延
体験記録−11

 昭和18年9月、戦雲急を告げる気運に、血をたぎるのを覚え、学業を放棄し、勇んで志願し、同年10月第15期陸軍少年飛行兵として、東京都北多摩郡東村山村所在の、所沢陸軍航軍技術(整備)学校、立川教育隊に入隊した。
 その頃既に革靴の入手は困難であったから代用品の靴を買い求め、赤土でぬかるむ田舎道を辿って入隊した時、折角の靴が台無しになっていた。
 いかめしい衛兵の立つ、営門を潜り抜けた隊内には、その日から寝起きすることになる木造2階建ての兵舎が、ずらりと並び建っていた。
 長身の大佐、三木連隊長のもとに二個中隊があり、藤田栄八中尉の指揮する第二中隊には、25名編成の内務斑12斑があり、私は第二中隊に所属し、班長は宮崎県出身のずんぐりした体躯の、メガネを掛けた丸顔の、通称熊さんと恐れられていた熊本正男伍長であった。
 班員はいずれも若干14才から16才までで構成されていた。
 訓練に明け暮れる日々は始まったが、内務斑では、軍隊精神を培う名目での「鉄拳制裁」が日常茶飯事的に行なわれており、些細な行動や理由をこじつけ、毎日全員が往復ビンタの洗礼を受ける羽目になった。
 一個斑は建物内を縦貫する1本の廊下を挟んで両側に分かれており、何れかの斑での制裁が始まると、こだまする鉄拳の音に和すかのように、鉄拳の嵐が吹き荒んだ。
 木銃制裁もあり、これは背丈程もある木製銃の台尻で、喉や胸部を廊下の端まで突いて行く方法であり、その間班員一同は恐れをなし、息を潜め、始まるのを待つしかなかった。
 私の斑に栃木県出身の森井昭次という、丸い童顔リンゴの頬の様な、美少年がいた。
 仲間ですらそう感じていたのだから、召集された、古参の班長らには、格好の餌食であったことを後日知らされた。
 入隊2ヶ月くらいしたある日、就寝前のことであった。熊さんが狂ったように森井の頬を打ちのめした。
 それも鉄鋲付の編上靴を改装したスリッパの踵部分を使う、往復打ちとなったからたまらない。見る間に両頬は膨れ上がり、かぼちゃのように変形、紫色へと変化し、ついに耐え切れなくなり、転倒するまで、あれよあれよと傍観するしか手がなかった。
 遂に身動き出来なくなった森井を、熊さんは下士官室担ぎ込んでしまった。
 やがて始まった週番士官の、就寝前の点呼は、巧妙な報告で難なく通り抜けてしまった、そのしたたかさは見事というしかなかった。
 下士官室の一室には、数名の班長らが入室しているが、悪事に対しての結束ぶりもさすがであり、死にさえしなければ、上官への報告は何とか回避しようとする雰囲気がありありと窺われた。
 回復するまで約2週間を要したが、この間班員が交代でする班長当番を通じて、熊さんが軍務の閑をみては、それこそ必死に濡れ手拭で森井の頬を冷し続ける状況が洩れ伝わって来た。古参の班長らが、朝夕の人員点呼をかばい続ける絆の強さも見えて来た。
 このような度重なる鉄拳制裁に耐えかねたのか、別斑の吉村班員が、寒風吹きすさぶある日、突如脱走してしまった。
 憲兵にこのことが知れたら一大事である。そこで毎日選りすぐりの古参班長らが、交代で捜索に出動して行った。
 数日を経た日、営庭に全員が集合していた脇を、連れ戻された吉村が通り過ぎるのを、垣間見たが、憔悴し切っており、営倉入りのことを考えると、哀れでならなかった。
 激しい軍務が続くため、支給される丼一杯の飯では飢えた腹は満たし切れず、何よりの楽しみは、面会に訪れた家族からの差し入れで、涙が出る程嬉しかったものである。
 そして衛生面の不潔極まりないことは、今思い出しても身震いしたくなる位であった。
 3度の食事の都度、食事当番が、炊事場へ食かん受領に行く、そして飯と汁の入った木製のバケツを1個づつ受取り、各自の斑内の机の上に並べた備品の陶器製の飯と汁皿に盛りつけ、空のバケツにはすぐ水を汲みに行って、廊下に置く習わしとなっていた。
 食事を済ませた順に、一方のバケツで汚れを洗い落し、もう一方ですすぎ直すわけだが、最後の者が洗う頃には、それこそ濁ってどろどろになっている。それを適当に洗い、板敷きの寝床の奥上部にある棚の軍装品の脇の白い袋に入れ、並べて置く繰返しであり、よくぞ病気にならなかったものだと思う。皇軍の在りし日の姿であった。



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