戦争体験記「記憶」〜第3章「軍隊」
「戦争と私」
大島次郎
体験記録−15

 昭和18年9月、陸軍飛行兵として宮城県名取郡の第10航空教育隊に入隊したのは、私が満21歳になって間もないころでした。
 配属は、軍の通信に関する部署で、何の経験もない私は、他の無線の経験を持つ者の中でモールス符号など通信の初歩から懸命に習いました。半年の教育期間が終わると同期の者は、皆、海外の飛行場、飛行隊などに配属されていきましたが、私はそこの教育隊の教官の助手として残りました。そして、自分も早く第一線の部隊に行きたい、そう考える日々が続きました。
 1年が経ち、配属命令により滋賀県の近江八幡に集合すると、行き先は「台湾」と告げられ、数日後には下関から貨物船に乗り込み、夕方出航することになりました。
 船は一晩中航行しましたが、朝外を見ると、20数隻の船団とそれを取り囲んで前後左右に海軍の護衛艦とが大きな隊列を組んで航行していました。これでいよいよ関門海峡を出発。もう見納めになるかもしれないこの美しい故国の日本の山や島々を感慨に浸りながら見つめたあと、船室に戻りました。
 船室といっても私たちの寝るところは、薄暗い倉庫のようなところに筵といってワラで編んだ粗末な敷物を敷いてその上に寝起きします。でも、その日は出航のときの緊張も少し解けてゆっくりと休むことができました。
 それもつかの間、夜になって突然、まわりの船たちの汽笛やけたたましいサイレンが鳴り響き、驚いて私たちはみんな何事かと思い、デッキの上に飛び出しました。すると、先ほどまで隊列を組んで堂々と航行していた船たちが激しく右往左往し、ジグザグ航行しています。
 そして、護衛艦からは、ドカンドカンと機雷を投下していました。その水しぶきがはね上がって見えました。敵の潜水艦からの攻撃に対して、船を守る動きをとって、機雷を投下しているのでした。しばらくすると、左隣に並行して航行していた5千トンほどの貨物船が潜水艦からの魚雷攻撃を受けてしまったらしく、もの凄い爆発音と同時に、船は船首を上にして直立した状態になり、甲板上に積んであった器材、木材などがバラバラと海中に落下してゆくのが見えます。その数秒後には、船全体が海に飲み込まれるかのように、すうっと姿を消してしまいました。今度は、私たちの乗っている船が今見た船のようにやられてしまうのか、撃沈されて海中に飛び込んだとしても、陸地ははるか遠くに見える朝鮮の済州島、とても泳げる距離ではない。攻撃されたら何かにつかまり救助を待つしかないと、覚悟を決めました。
 敵の潜水艦を監視するため、みんなで交代で甲板に立って見張り役をしました。このとき海面を見つめていると、故郷の母や兄弟、友人たちの顔がしきりに浮んできました。出発して一晩も経たないのに、こんな日本の近海まで米軍の潜水艦が来ているとは、戦争の状況は、日本にとって相当厳しいのではないかと愕然としました。
 このように苦労して、やっとの思いで任地である台湾の南部にある屏東の飛行場に到着しました。そこで入隊以来始めて白米のご飯を口にし、天国のようだと喜びましたが、それも1か月ともちませんでした。
 米軍の空襲により、飛行場の滑走路、燃料庫、飛行機の格納庫、そして私たちの兵舎までも、すべてがめちゃくちゃに破壊されました。空襲を受けた中で私が一番恐い思いをしたのは、飛行場で生き埋めになった時のことです。
 ある時、米軍の空爆が始まり、私は飛行場の中に作られた「タコつぼ」と呼ばれた一人用の防空壕へ飛び込むと、低空飛行で来たB29(米軍爆撃機)がパラシュートをつけて爆弾を落としたのです。私の逃げ込んだタコつぼの近くに落下した爆弾は、すさまじい勢いで大きな穴を空け、その土砂がタコつぼの上に降り積り、私は「やられた」と思ったときには、生き埋めとなり、気を失ってしまいました。数時間後、戦友達に掘り出され、気がついたのは、翌日、陸軍病院のベッドの上でした。土砂の重みで骨折をしており、約1か月入院した後、又、復員しました。
 昭和20年になると戦況が激しくなり、南方方面から集結した戦闘機が毎日のように沖縄方面に出撃するようになりました。20歳前後の学徒兵が鉢巻きを締め、特攻機の操縦席の上から挙手をして飛び立つのを飛行場から手や帽子を振りながら見送ったことも度々ありました。「靖国で会おう。」と笑って飛び立っていった姿を今でも忘れることができません。「靖国で会おう。」それは、二度と生きて戻ることのない死への旅立ちでした。
 戦後50年経った今日、戦争というと侵略とか、植民地政策、謝罪決議とか政府、国会で言われていますが、一部軍閥や政府の方針で戦った人の大部分は純粋に国を思い、命を捧げ殉じたのであり、当時の人々は、皆、戦争のために学校も職業も自分の意志どおり進めず「国の為」という一言で人生を送ったのです。
 命長らえて幸いに復員しても、終戦後の経済事情、食糧難と苦難の道を辿り、今日の日本の繁栄への努力をし、自分の若き日の夢と違った人生を歩んだのは、私だけではないと思います。それだけに如何なる理由でも戦争はあってはならないと思います。そして、平和な今、幸せを実感しています。



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