戦争体験記「記憶」〜第3章「軍隊」
「軍隊生活の中から」
大森義三
体験記録−19

 <戦歴>
 昭和17年暮れ応召。高射砲独立中隊入隊。鶴見三ツ池、杉並向井草、大宮日進陣地転戦。部隊編成度々あり、その都度外地前線に出発。最終編成部隊は沖縄止まり。入隊時の同年兵70余名中、終戦時部隊に残りし者5名。
<入隊時幹部候補生志願を拒否>
 同時に入隊した初年兵の中、幹部候補生有資格者は4人いた。私もその一人。私は幹部将校から再三再四数日にわたり志願を強要された。再三断ると暴力を含め非国民的暴言もしばしば。それでも辞退した。私は幹部であれ兵であれ軍隊で国に奉公するのは同じであると強調。同僚の他の3人も私同様断った。(兵隊でいれば1年半で召集解除になると一般に言われていた。)
 しかしその仕返しはやがて現れた。他の3人は次々と外地に飛ばされたのである。幸い私はある特技を持っていたので残されたが。
 昭和19年夏、今度は中隊の主力が前線に行くこととなり私もその一員となった。ところが出発の当日、私は連日の苛酷な勤務が響いて重い日射病で倒れ、遂に残留組となって命拾いした。(この部隊は沖縄戦へ)
<一本のタバコ>
 空襲が続くある日公用で街に出かけた。突然空襲警報が鳴り通行人は一斉に待避し、私もその中に加わった。しばらくして私は何気なくタバコ(ほまれ)に火をつけた。部隊にはタバコにこと欠くことはなかった。ところが隣にいた一人の老人が一服吸わしてくれと頭を下げられた。ハッとして娑婆ではタバコもないのかと直感し新しい1本を差し出した。その人は2,3服吸うと隣の人へ、また同様に数人の人が1本のタバコを吸った。これを見て私は別の一箱を彼らに与えたが、盛んに頭を下げられて恥ずかしくもなった。国民がいかに困っているかを痛感した。
<陣地内の台所>
 昭和19年も暮れになると戦闘は激しさを増した。その頃暗い情報がそれとなく耳に入る。大砲の弾薬の補充は不能だと。弾薬は倉庫の片隅に少しあるだけ。数回の戦闘で弾薬はなくなる。しかしこの頃毎日のように敵機は飛来している。果たしてどうなるであろうかと。また中隊に配置されていた小銃もいつの間にか前線に運ばれ皆無であった。
<挺身切込隊の編成>
 やがて前線の敗北の情報と共に、内地決戦に持ち込むとの噂あり。事実各中隊より数人ずつ集め挺身切込隊を一部隊編成することとなり、私もその一員に選ばれた。爆薬を背負って本土に上陸した敵陣地に切り込み、自分の体ごと爆破する計画である。これは訓練のみで終わったが。
<空襲時民家救出へ>
 昭和20年4月、陣地を中心にB29の編隊による大空襲を受けた。数十発の大型爆弾投下。軍の施設の破壊は勿論のこと、多くの兵士が死傷したが、さらに陣地周辺の民家も数キロメートルにわたり大被害を受けた。
被爆直後中隊長は人員の点呼の後、元気な者は近くの民家の救出に当たれと命令あり。私も数人の兵と共に一斑を作り民家に向った。
畑の中に点在している民家まで大きな穴や土盛を乗り越え民家に着いた。破壊された家には屋根はなく内部も散乱していたが人影は見えない。近くにあるはずの防空壕を探し出し、掘りにかかった。しばらくして、人の足、手が出てくる。まだ暖かい。急いで掘り出してみると一つの防空壕に数人いて、皆息は絶えていた。作業途中に暗くなり照明もないので引き揚げたが、一人の生存者も救出することはできなかった。
この爆撃で民家の人的犠牲者は何百人か、その後のことは聞いていない。
<終戦直前の中隊の生活>
 向井草陣地爆破後、生存者は日進陣地に移った。ここで終戦となった。ここでは大した戦闘はなく艦載機による機銃掃射を数回受けた程度。しかし食糧事情は極度に悪く閉口した。食事は一日2回、それもおも湯の中に米粒が泳いでいる程度、汁は塩汁、おかずはタクワンふた切れ。兵達は近くの土手からどくだみ等を採り飯盒で茹でて食べていた。また風呂は4キロメートル程離れた軍需工場まで週2回、隊を作って行ったが、そこの従業員入浴後のためドロドロしていて入浴はできず、水で体を洗って帰ってくる。中隊には水道はなく水は大切で、体を洗う程余裕はなかった。
<後書き>
 2年半の応召生活の中からほんの一部を記してきたが、残酷な戦争の実態は地獄そのものである。2度と繰り返してはならない。
一握りの指導者に操られ一億国民が巻き添えになったのだ。今後指導者の選択には心していかねばと思う。
最後に、犠牲になった多くの戦友、国民のご冥福を祈りつつペンを置く。



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