戦争体験記「記憶」〜第1章「戦争被害」
「悲惨な横浜空襲の思い出」
長沢義雄
体験記録−2

 戦争により不幸にも本土に被害を受け始めた当時、私は弱冠18才の一公務員だった。昭和20年5月29日の横浜空襲の当日は、晴天で若干汗ばむ気候であったのを記憶している。
 午前6時少々過ぎた頃だと思うが、関東地方に警戒警報が発令されたのをラジオニュースで知った。早速戸部の下宿先を出て伊勢佐木町の外食券食堂で、毎月決められた米穀配給所から貰った1か月分の食券の中から食券2枚を出し1枚を朝食用に、1枚は昼食用にと弁当箱を出して詰めて頂き急いで職場に向かった。朝食と昼食の状況を説明すると、朝は麦と豆粕の混合食で、量は茶碗軽く1杯、それに沢庵2切れ、ワカメの味噌汁がお椀1杯。昼食も全く量は同じでありヒジキのおかずと沢庵2切れで大きくもない弁当箱の型角に片寄る程度だった。食べ盛りの私なんかには何処へ食べたか詳らない程度だった。殊に空腹時は、2食分を食べ食券のない時は寝てすごしたものだった。
 さて、空襲の状況は、職場に着いて間もなく、確か8時少々過ぎた頃だったと思うが、空襲警報が発令されたので急いで職場の自分の分担に着き、暫くすると「キーン」と「ゴーン」とが入り混じった異音が耳に入った。その方向に目を向けると、なんと視界一面に銀色に光るB29の大編隊が目に入った。飛行機が大きくなるに従って、今度はシューシューと音が入り混じりながら焼夷弾が投下され、見る見るうちに一面が黒煙と火の海に変わったので、職業の責務からその現場に車で向かったのであるが全く手の施しようがなく、逃げおくれた市民を安全な防空壕に誘導するのが精一杯で、早速強制疎開で空地になっている処に避難しその車の下にもぐって熱さの最盛期が過ぎる間を待ったのである。何しろその熱さたるや、近くに市内を流れる大岡川があり、その川に製材用の丸太が多数浮いていたが、その上部分が薄黒く変色する程であり、防空壕の中で我慢出来ずその川に数多くの人が飛び込み、難を逃げられた者、あるいは力尽きて犠牲になった者を多く見かけた。また逃げる途中、焼夷弾の直撃にて倒れ、道端に転がっている姿を見て、ある兵隊で戦争を経験した者が、これは戦場より凄いや、と呟いたのが耳に残っている。
 なお今でも脳裏に焼きついている光景を少し列挙すると、目前の川の中に、数えきれない程大勢の生死不明者や、焼夷弾を直接身に受けて血を流して道路に倒れてる者を数多く見た。また空襲も終り殆ど焼け野原になってから、一人の中年女性が1才位の子供を背負い急いで近くを通る光景を見たが、その子供が異常な物凄い声で泣き叫んでいた。おかしいと思いよく見ると、着ていた薄いネンネコの後ろに飛火し、「ブス」「ブス」と燻っているではありませんか。母親は全く気付かない。直ちにその状況を母親に告げると、子供をおろし、ひどく火傷している子供を抱き小走りに去ったのであるが、確か南区の堀の内から来て桜木町に行くと言っており、くれぐれも気を付けて行くよう言葉をかけた記憶があり、無事であったかどうか今でも思い出す事がある。
 他に色々と脳裏に残っているものもあるが表現できず残念に思っている。
 最後に、この空襲で数多い犠牲者を目の当たりに見て、心からご冥福をお祈りすると共に、二度とこんな戦争は永久にしてはならないと声を大にして叫び続けたいと思っている。



前の体験記へ 体験記一覧へ 次の体験記へ
メール
平和祈念館ホームページへ平和祈念館トップへ 大和市のホームページへ