戦争体験記「記憶」〜第3章「軍隊」
「ラエのブス川を染めた鮮血」
富澤美晴
体験記録−22

 昭和17年12月1日、千葉県柏の東部七十七部隊機関砲隊へ入隊、越えて18年3月末日、独立機関砲第29中隊へ補充兵として編成されることとなり4月十日内地を出帆し、途中パラオに寄港してラバウルに着いたのは5月3日であった。
18年6月初旬、ラバウル基地司令官からの命令により、ニューギニア島ラエに駐屯する本隊「猛第四三三二部隊」に追求することになった。船舶工兵の舟艇(大発)でニューブリテン島を西回りし、同島の先端ツルブから、フィンシュハーヘン経由で目的地のラエをめざす渡航作戦である。
18年9月4日、昨日までの大雨も止み陣地は古兵にまかせて弾薬の補充に専念する。ラエ飛行場の近くまで来たとき、グラマンがけたたましい爆音と共に機銃掃射をしてきた。
この日、上陸した敵米濠連合軍は全くの無敵上陸であった。我々の熱望していた友軍機は遂に姿を見せなかった。翌日の午後にラバウルから海軍の戦爆連合が飛来して上陸地点を爆撃した。昨日に続いて大型輸送機から物資、兵員などの揚陸中であったので敵グラマン戦闘機が護衛する中を陸軍の戦闘機が加わり一大空中戦がくり広げられた。
9月11日早朝に起床しブス川陣地について横山中隊長から司令部の命令が伝えられた。「我が機関砲29中隊は本日早朝、将校斥候(偵察のための兵士)を組織し出発する。只今から斥候に出る者の氏名を言う。将校全員、ただし渡辺中尉は病気のため陣地に残り部隊の指揮をとる。ほかに下士官6名兵1名の11名とする。直ちに朝食をとり出発する。」との命令であった。
私は一兵卒として将校斥候に加えられた。下士官6名はいずれも軍曹と伍長である。我々斥候は右へ右へと迂回して小さな川をいくつか渡り葦が踏みつけられ敵が一線を敷いていたことが歴然としていて、フィリップモリスやラッキーストライクの煙草の空箱やチユーインガムの空が散乱している。敵は近くにいるらしい。
我々は三方から包囲され、その中心にいたようだ。横一列に並んで次の状況調査に入ろうとしたときに、前方5,60メートルくらいの所から自動小銃と機関銃で雨霰のごとく天も裂けよとばかりの一斉射撃を食らったのである。その時、横山中隊長は頭部貫通で即座に前に倒れた。
中隊長の右隣りにいた私は左上膊部と右大腿部を同時に貫通銃創を受けたが、間髪いれず後方の水溜りに飛び込んで銃弾を避けた。同じように並んでいた斥候は数発、数十発の銃弾を受けて全員壮烈な戦死を遂げたのである。
自分以外の斥候は全員戦死である。何としても部隊に帰って状況報告をしなければならない。体にまつわる装備を全部捨てて裸一貫で無我夢中で這い出した。その時には、左前胸部、右下腹部貫通、臀部に2発が盲貫する傷を負っていた。
陣地に到着して渡辺中尉に、戦闘状況、敵陣地の概要、敵の人数、兵器、地形などを詳細に報告し、終わると中島中尉は、ご苦労だがラエの司令部へもう一度報告してくれと言われて、2人に肩を支えられて600メートルほど離れた司令部で同様の報告をした。
部隊はラエを撤退することとなったが、この体では部隊と行動を共にすることは無理で部隊の足手まといなると思うと話したところ、海軍病院へ連絡をしておくのでそこへ行き手当てしてもらうようにとのことだった。
 病院で2人の軍医と2人の衛生兵によって治療が行われた。まず破傷風とガスエソの注射をしてくれた。今後どこの病院へ行っても予防注射をしたと医師に伝えるようにとのことだった。今にして思うに私はこの注射で助かったように思う。この時の骨折、銃創など9ヶ所に及んでいた。重症患者の収容所は海岸近くのジャングルの草むらに寝ているだけで収容所とは名のみであった。食事は病院から握り飯が配られていた。
うした中で前後不覚によく眠っていた。翌14日にはラエに最後の潜水艦が来るとの連絡があり、4時までに海岸へ集合といってきたので海岸の方へ歩いて行くときに思いがけず同郷の鈴木君に再会する。
夕暮れ近く潜水艦が浮上し、乗船名簿に従って乗船したが、潜水艦の入口が小さく、私は傷が痛くて入ることができず、まごまごしているうちに将校が1名強引に乗船したのでしかたなく下船して、また元の収容所の草むらに帰り寝たのである。
12時近くになって司令部から来た2名の上等兵が患者の枕元に手榴弾を置いていくのが見えた。我々は生きる望みを捨ててはいない。必ず生きて帰るという信念である。望みを捨てた時は死である。
ちょうどその時、海岸の方で何やら大きな声がした。「機関砲29中隊の者いるか。乗船できる大発がある。歩ける者は歩いて来い。」私たちは大きな声で返事をしながら歩き出した。他の患者も歩き出した。歩行のできない残った兵隊の「連れていってくれ!殺してくれ!」という悲痛な叫び声が今でも耳元に残っている。
ラエ湾はすでに占領されている。大発は食糧弾薬や負傷者で一杯で、敵の魚雷艇に会えば全力を尽くして交戦し全滅を覚悟のラエ湾の脱出である。
9月15日、12時を過ぎていた。満月のラエ湾を一直線に半分以上すぎて左に寄り始めたときラエ湾右岸から数発の発砲があった。エンジンを止め島影に船を寄せた。息の詰まる一瞬であった。しばらくしてエンジンを始動し航行を始めた。
幸い一度も応戦することもなくラエ湾を脱出できたことは、まさに天祐というべきで、ラエとフィンシュハーヘンの中間地点に到着することができた。夜明けと共に敵機の来襲にそなえ舟艇をジャングルに覆われた所に隠して直ちに偽装する。夕日が沈むと同時に出発し、こうして一晩、二晩と敵中を無事に通過してフィンシュハーヘンに着くことができたのである。
更に、シオ・マダン病院を経て18年10月23日ウエワク病院からパラオ病院、11月17日広島陸軍病院、12月1日東京第2陸軍病院大蔵分院と転院し、昭和19年5月1日付をもって家庭療養を命ぜられ同年6月10日付で兵役免除となる。
(富澤さんの戦記は自署の「太平洋戦争と生魂」に詳しく記録されています。)



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