戦争体験記「記憶」〜第4章「戦後復興」
「我が家の戦後復興記」
岡崎信英
体験記録−23

 2年の兵役を終え、平時ならば軍隊からは解放されるが、戦時のための引き続き3年間を召集兵として努めた。この5年間の軍隊生活を経て、満州から川崎の我が家に戻ったのが、19年12月31日夜11時。明けて昭和20年正月、毎日の様に続く空襲、その3月に現在の妻と結婚、やがて8月終戦。生活様式が変わって来た戦時中は、男手が絶対必要だと言う母親の願いと、家不足の両面で同居していたが、終戦後はもはや、両親兄夫婦と私共に三世帯で一軒の家に住む事は必要悪となり、加えて長女出産ということもあり、我々は近くのアパートに転居した。四畳半一間、トイレ炊事場は共同、掃除は当番制で、赤ん坊を背にしての妻の奮闘が続いた。22年4月やっと社宅に入居の番になった。六帖と3帖の二間ながらトイレ台所もついて名実共に私達親子の城であった。嬉々として家事に精出す妻、私も家庭菜園と張切って充実の日々を送ったある冬の朝、雪の降る中、会社へ向かう途中、これも社宅住いの総務部長宅の路上に世帯道具が山と積み上げられその上に雪がうっすらと積もっている、同僚の話によると退職後いつまでも社宅に居る為、会社側が実力行使に出た由、本人より家族の人達が困って居る事だろう。話には聞いた事もあったが現実にぶつかってみるとこれは、と考えさせられた私は早速妻と相談の結果、どんなに小さな家でもいい親子3人安心して住める家を持とうと意見一致した。
 さて当時の月収、昭和25年1月5,500円、2月5,243円、3月4,280円、6月4,926円の収入時代です。直ちに実行、会社側に了解を得て当時の進駐軍へ入社。エンジン技手として入社決定。次は土地の入手、これも川崎市木月に13坪1ヶ月十円の地代で借りた、会社側には家が出来るまで1ヶ月間転居を待ってもらった。さてそれからは一人舞台、幸いにして進駐軍は残業がなかったから、その時間を利用して会社から不要の耐火煉瓦を入手してそれを基礎とした。一人で運搬穴掘り全部やった。土台と骨組みは本職の大工さんにやってもらった。建前が完了した後は父親の協力を得て屋根のルーヒング張り、兄と二人で外周の羽目板張りをやり、電灯は二灯の定額制とした。この時点で社宅を出て新居へ移った。これが同年8月であるさて移転したものの、水道はもらい水(後年本管埋設された)、排水も石油缶にためて時々すてる方法(これは私の仕事だった)、屋根は瓦なし、だから夜フふと目がさめて見上げたら、ルーヒングの破れた所からお月様が見えた。又壁の前処理だけはやってあるが壁土はついていない、だから風が入って来るので妻と二人で制図用紙を壁の代わりに張りつけた。風の強い日は紙がふくれ上がって音がにぎやか、親子3人の時代だから笑い話ですんだ。電気も定額制。昼間は電気なし。妻は一升瓶に湯を入れてアイロン代り、私のYシャツのしわ伸ばし。後年、友の協力を得て二人でメーター制に変更してラジオも昼間聞けると妻が喜ぶ。水道は当時もらい水だったが、本管が伸ばされて敷設完了。これに伴って排水設備も1日かかって土管を入れて完了した。その後壁の件も、妻の小学校時代のお友達が壁屋さんとのことで、安くやってもらった。屋根もスレート瓦をのせて重たくした。塀も日曜大工として自分でやった。最後に残ったのが建具のガラス32枚、そろそろ涼しくなる頃妻と話をしていたら小一の長女が、私の友達の家がガラス屋さんだよ、と教えてくれたのでヨシ!とばかり飛んで行き事情を話したら分割払いでいいですよ、助かった。渡る世間に鬼はいないと感謝した。
 入居して3年で全部完了した。しかし次女も生まれた。加えて子供同士の口喧嘩を聞いて居ると「なによちっぽけなお家」と近所の子供は言っている。子供がくやしがっている。時やヨシ!昭和30年住宅金融公庫発足。妻と相談意見一致した。それから妻も内職にがんばり、出来た製品を車で持込むのは自分と子供二人が後押し、夕方の町をガラガラと行ったあの頃がなつかしい。私も昭和32年のお正月から平成3年の間、正月奉仕員として川崎大師にバイトをさせていただき感謝した。さて昭和33年10月、公庫申込み計画実行とした。その資金、木月の住宅を売った35万と手持資金64万円計99万円、妻がタンスから出してくれた。二人とも顔を見合わせて無言だった。よく頑張ってくれた。現在100万円ためるのに何年かかるだろう。出来ないかもしれないのが実感だ。最後に一言"楽あれば苦、苦のあとは楽"と昔の人はよく言ったものと、つくづく感じる昨今である。



前の体験記へ 体験記一覧へ 次の体験記へ
メール
平和祈念館ホームページへ平和祈念館トップへ 大和市のホームページへ