戦争体験記「記憶」〜第3章「軍隊」
「戦局益々我に利あらず」
岡本与吉
体験記録−17

 昭和19年4月、兵庫県多紀郡篠山町、第31航空通信連隊で6か月の教育課程を経て転属命令の通達た言い渡された。私岡本一等兵の名もその中にあった。数日後山田伍長他24名、福知山姫路を経て山陽本線を西に向っていた途中、何時間か前の空襲により駅舎とホームが燃え盛る広島駅を通過し、翌朝下関駅に到着した。
早速停車場司令部へ寄り宿泊旅館等の指示を受け、早めに旅館に着いた(下関市上田中町)。夕食後山田伍長より、任地は朝鮮全羅北道沃溝面郡山特攻基地、乗船地は山口県須佐、その他注意事項等の申し渡しがあった。さてその翌日、私と3人は近くの日和山公園に行き、久しぶりにシャバの空気に触れ、また桜の花びら舞う斜面で下関港を見下ろしながら閑談。20歳の青春もちょっぴり。そして軍律の門限には旅館に帰り、夕食後は皆今日一日拾い集めてきた話などで楽しいひとときであった。まもなく9時の消灯である。皆静かになったかと思う間に自分も寝付いていた。突然空襲警報のサイレン。皆バガッと起き、一応軍服姿になった途端に対空砲火が始まった。飛行機の音がかすかに聞こえてくる。誰か海側の窓を開けた。海の向こう側は門司方面である。門司の市街から火の手が上がっている。だんだん激しくなってくる。瞬く間に門司全市が炎の下敷きになっているように見える。私たちのところから7、8キロ位か、まったくすごい火災であった。だが、私達の下関には影響なさそう。朝まで少し寝られた。
次の日は外出禁止。窓から門司方面を見ても被害の状況がよくわからない。昨夜のことが嘘のようだった。一日中体の置き場がなかった。夜11時、また空襲警報。今夜は私達の所から東南方向、旅館の裏山越しに空が真っ赤である。この日は12時過ぎには寝てしまったと思う。そして朝起きて誰言うともなく、今晩も11時にまたお客さんが来るかな・・・・。
その番は軍服を着たまま、靴は枕元に置き、不寝番を2人置き寝付いたが、本当に11時に、また警報と不寝番の「起床」の大声が同時だった。20分位して飛行機の爆音と対空砲火の音。今度は近い。爆音は艦載機らしい。低空である。皆外に飛び出した。空を見上げた。焼夷弾がまるで雨のように降ってくる。傘型に落ちてくる。上空で着火して青白い光の傘がだんだん開いてくる。飛行機は見えない。時々、ザザーッとトタン板に雨が強く当たるような音がした。これは焼夷弾の炎を拡げるための燃料と思われた。今夜は私達の下関が目標であることがわかる。サーチライト、高射砲、機関砲そして人の悲鳴、まったくすさまじい。火、火、火、空を見ると機関砲の曳光がまるで真っ赤に焼けた金網を下関の空にかぶせたように私は見えた。私の回りも火だらけだ。私達と民間の人と協力して、火たたき、防火用水の水等で懸命に火を消したがまったく間に合わない。遂に旅館の裏手に火がついた。そして隣家、前の家に。もうどうしようもない。
山田伍長「岡本、2階へ行って忘れ物はないか見てこい。」「はい。」私と誰か2人2階へ駆け上がった。部屋の中はまるで昼間のように明るかった。何もない「よし」。降りる階段の手すりもすでに燃えている。2人は道路へ飛び出した。「何もありません」。山田伍長「海の方に逃げよう」。奇跡にも私たちは25名皆無事。私たちは隊列もかまわず燃える街並みの中をまず大通りへ逃げた。途中、避難する民間人と合流して300人位いただろうかその人達の中に、目が見えない、助けて下さいと抱きつく人もいたという。とにかく岸壁まで来た。下関港である。大きな倉庫が建ち並んでいるその倉庫から岸壁の縁まで5メートル位ある。私たちは安全なひさしのある倉庫の方へ移動し始めた。先頭を歩いていた兵が、あっと奇声をあげた。皆立ち止まった。倉庫の前に何かある。良くみると人らしい。寝巻姿である。首がない。寝巻の柄から若い女性とわかる。手足が時々動く。首の付け根からものすごい血。焼夷弾の直撃か。近親者が近くにいるのかわからない。そこから5、6メートル位の海の縁に着剣の銃を持った兵隊がいる。小銃弾を守っているらしい。20箱位置いてある。火が迫れば何時でもその箱を海へ蹴落とす様子。その兵隊の顔半面真っ黒でほほが少しえぐれてた。血と汗がしたたっている。「焼夷弾にやられたか」「はい」と返事しながら倒れている女性を指さした。一緒の時にやられたらしい。その兵隊の仲間はどこに行ったのか、私たちには衛生用具はなし、どうすることもできない。敵機の爆音は少し遠のいた。私たちが一塊になっている所へ男の人が飛び込んできた。「兵隊さん助けて下さい。子供が生き埋めになった。」と叫ぶ。伍長は5名の兵をその人に同行させたが、間もなく帰ってきた。3人の子供は絶命と報告された。また米軍の焦土作戦の犠牲者、残念。
今度は右方向に大爆音。猛烈な火の手、階上5キロ位あるか赤黒くうずを巻いている。ものすごい音も聞こえてくる。巌流島の燃料庫と誰か言う。私たちには手も足もでない。その炎と重なって貨物船が大火災を起しながら私たちの方へ動いてくる。繋留が切れたのか風にあおられ岸壁にゴツゴツ体当たりしながら私たちの前を通った。船上には2人船員らしき人が倒れている。
夜が明けた7時、私と他1名は朝食の受領に司令部に行く。下関の街がなくなっている。燃え尽きている。道路は焼け、爪先と踵で交互で歩く。熱い。それでもなんとか任務は果たした。それから3日位後、任務地に着いた。犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りいたします。



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