戦争体験記「記憶」〜第5章「大和市と戦争」
「鶴間新町の空襲」
小松一男
体験記録−25

 私は戦前生まれで、小学校までは義務教育で、その後高等科2年までの教育があったが、その後、行く行かないは自由だが、青少年は5年まであった。私は青少年学校に行き、勉強もやり、また戦闘訓練もした。敵に見立てた藁人形を、ほふく前進しながら(体を伏せながら)近寄り、銃剣で突くという練習を重ねた。練習には本物と同じ銃が40〜50丁位あり、中には本物の38式とか99式の銃が2丁あった。
 また、あの当時は飛行機を飛ばす油がないとか。私たちは松の根を堀りにでかけたりした。その根を割り、それを水で煮立て、油が浮くのをすくって精製し、ガソリンがわりにしたとか。その仕事は厚木航隊より兵隊が来て仕事をしていた。また、私たちの仲間の中から役所より通知が来て、徴用とかで軍関係の工場で働かされた人もいた。また、会社等を休んでぶらぶらしていると、憲兵が来て炭坑で働かされた人もいて軍部の力は強かった。家にいた18歳以上40歳前後の人は、防衛召集で竹槍とわらじをはいて校庭で人を突く訓練等もやった覚えがある。まったく、何のためかわからなかった。終戦も近くなった昭和20年の5月24日から25日未明にかけて空襲があり、いつも家のおやじは空襲というと身支度をして必ず外の様子を見ていたが、今晩は様子がおかしい、と言いながら私と2人で前の方の林へ歩いて行ったが、その時、林の松の枝にガサガサと落ちる物があったので家の方に引き返した。(あの時の音が、電波妨害のためのテープのような細長い錫であった訳です。あれを触ると毒が塗ってあるとかの噂があった。)その時、頭の上の方をシューという音、思わず足がすくんで、もちの木に身をゆだねた途端に、グシュンと何かが土に刺さった音。機関銃の弾かな、と思った時、おやじが、防空壕に避難しろ、と叫んだ途端、飛行機が機銃を撃ちながら、防空壕に落ちてくるようなものすごい音。防空壕から外を見たら一面火の海だった。昔は藁屋根だったので、どこの家も火の回りが早かった。麦畑もローソクを立てたように、まだ青いがチリ、チリと燃えて、手の付けようがなかった。私の家も焼夷弾がたくさん落とされ、手の付けようがなかった。その時、家に戻る間がなくて、家の中に弟と妹と母がいたので気遣った。聞くと、寝ている弟の両脇に焼夷弾の破片が落ちたらしく、皆無事だったのは奇跡的だった。母屋の方はあきらめて、物置は何とか助けようとしたが、無我夢中でバケツとか消火器具を探すゆとりはなかった。物置も屋根に火がつき、三角窓に火が入ったらおしまいと、水は少ししか運べず困っていた時、おやじがむしろを濡らして持ってきたのが良くて、すぐに消えて、物置だけは助かった。どの位時間がかかったのかわからなかった。そして、おふくろや下の妹、弟等を、また落ちてくるかわからないので避難させたが、その時、衣類は少し持ち出しだが、非常用に缶に詰めておいた米もフタを開けたら中はキツネ色に焦げていた。これも後に食糧難のため、戸塚の親戚の人が全部持っていったことをおぼえている。結局、16軒、36棟が焼けた。その跡から焼夷弾の殻がリヤカーに何台も出た。飛行機から落とされた時は、36本がひとたばで、プロペラのような物が回って途中で破裂してバンドを切って散らばったようだった。(それが不発で地上に落ちて、これに触ってけがをした人もいた。)焼夷弾は口径が十センチ弱位、八角形で、下におちるといぼのような物が押されて発火装置が働き、爆発と同時に自転車のパンク修理用ののりのような油脂に火がつき、辺りに火が移って燃える訳である。その時、ひものような物も見た。それは多分、空中の何かにからまってすべての物が燃えるのだと思う。
 また、高橋さんの奥の山林の中に、束になった焼夷弾1束(36本)が不発で落ち、相模原の東部88隊の兵隊さんが掘ったこともあった。深さ3〜4メートル埋まっていた。あれが広がればまだかなりの被害があったと思う。また、杉崎貴重さんという方は、軍より召集令状が来ていて、翌朝、年老いた父さんと奥さん子供さんを残して、まだ煙がくすぶっている中、後ろ髪を引かれる思いで家をあとにした。部隊に着いて、町長の罹災証明を持っていっても、どこの家も皆同じだと言われ、とうとう帰されなかったようであった。杉崎さんの弟さんも海軍水兵で、駆逐艦に乗っていて直撃をうけて戦死。気の毒に青春がなく、私はこの人たちのことを時々思い出し、今の飽食の平和を感謝しながら筆を置きたいと思う。

(*注) 「鶴間新町」は、現在の下鶴間のうち、小田急線の西側、県道座間大和線の両側の地区を指す。緑野小学校周辺の地域である。



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