戦争体験記「記憶」〜第5章「大和市と戦争」
「戦中、戦後の渋谷村」
山下武雄
体験記録−26

 (基地用地収用のこと)私は6人兄弟姉妹の長男として生まれ、渋谷村(現在の大和市南部)福田丙8の区5322番地に住んでいた。ここは今では厚木基地の中となり、ちょうど家のあった場所は自衛隊の宿舎となっている。当時は養蚕を主にした農業を営んでいた。昭和15年の春ころだったと思うが、この自宅の上を「赤トンボ」言われた軍用の偵察用飛行機がやたらに飛ぶようになり、半年位続いた。後から思うとこれは基地建設前の調査のためだったようだ。そんなある日に突然、内務省からだったと思うが、関係者ということで近所の者も一緒に綾瀬村(現在の綾瀬市)役場に集合するようにと通達があった。父が出向くことになったが、何のことだか全くわからず、まさに寝耳に水だった。役場に行くと地図を示され、「ここの地域に用地の約7割、渋谷村に約3割の用地を収用する内容ではあったが、田畑の代替地は確保できないまでも、住宅については代替地を提供するとのことであった。しかし後に軍も手に負えなくなり、結局は住宅用地も自分で探すことになってしまった。渋谷村の中で計画地内に住宅があったのは柴田家、田辺家と私の家の3軒だけであった。軍が買い上げた土地の金額は、多少、土地ごとに評価が違っており、私の周辺の福田あたりでは宅地が一反およそ600円、耕地が一反およそ500円で、評価が高井地域であった。しかし、耕地を収用されると仕事がなくなり、ほとんどの人が生活そのものを変える必要に迫られた。大きな耕地を持つ農家で小作をしたり、商売替えをして農業をやめる人なども多く、かなりの負担となった。また、支払われた土地代金は、公債として支給されたものであった。これは毎月に分けて支給され、しかも月額には一定の制限があったので決して十分なものではなかった。私の家を含む3軒の家は、移転先を探すことになったが、これもなかなか見つからず苦労した。結局は、父の知人に土地を売ってもらい、今の桜ヶ丘駅西南の一角に、3軒並んで移転することができた。移転は昭和17年3月まで約1年かけて、元の家の母屋と蚕室を移築した。当時は家を解体し、そのまま移築するのが当たり前だった。(終戦直前のこと)厚木基地周辺では、戦争末期にはアメリカのグラマンなどの戦闘機による機銃掃射を受けた。海軍では基地を守るために、横須賀の戦艦長門に艦載されていた12.7センチ高射砲二門を取り外して持ってきて、現在の桜丘文化会館の東側にある丘に据え付けて備えようとした。これは巨大なもので、結局据え付ける前に終戦となったが、後に米軍が爆破するまでその場に放置されていた。実際に使われたのは25ミリ機関砲で、やはり桜ヶ丘駅西側に置いて、戦艦長門の一個分隊数十人が駐屯して守備に付いていた。銃と違って炸裂弾であったので、それまでは縦横無尽に飛び回っていた米軍機も一度この機関砲で攻撃されると警戒してその後は来なくなった。この機関砲は終戦後すぐに平塚火薬廠に撤収されることになり、私の父もその運搬に携わっていた。昭和20年8月15日のこと)私は戦時中、徴兵検査が丙種(在郷軍人ではあるが実際の戦闘要員ではない)であったため、翼賛壮年団という組織に入らされ、軍に協力する仕事をさせられた。これは無報酬の勤労奉仕であったと記憶している。そこではのこぎりの扱いが得意だったので、材木を伐採する仕事を主にしていた。基地の関係の使役もあり、農家にある牛車を使って材木を上草柳の高座海軍工廠に運んだりした。基地周辺の防空壕堀などもした。この運搬は、軍の信頼に応じて運送業務を行うための地域の組織「小運搬組合」というものがあり、私はこの組合にも入っていた。この組合は、軍から半強制的に業務を依頼されるが、報酬は払われるものであった。
 ちょうど8月15日はその当番の日で、近所の田辺さんと2台の牛車で、現在の桜ヶ丘の大矢製材(現在は湯浅材木店)から、素焼きした木板を鉄道で大阪へ送るために藤沢の貨物駅まで運ぶことになっていた。朝7時位に積み荷を終え、滝山街道を藤沢に向かった。当日の天気は、何か嵐の前のような雲が低い天候だったことをよく憶えている。雨は降っていないが西風が強く雲は黒かった。不思議なことに、関東大震災の日も全く同じような天候だったので印象に残っている。朝から警戒警報が出ていた。放送では敵艦隊が鹿島灘にあり、厚木基地の飛行機が迎撃に向かうということだったが、雲の間から見えた東に向かう飛行機は輸送機ばかりで、戦闘機はなかった。これはおかしいと思った。今から思うと、終戦を察知した部隊が逃げたものだったと思う。藤沢の貨物駅はホームがなく、地面から直接、停車している貨車に荷を積むのであったが、その日は混乱していて、積み込む予定の貨車が配車されていなかったので、しかたなくあとは駅の係員に任せて、荷を地面に降ろして帰ることにした。帰りに引き替えに持ち帰る荷物も結局受け取ることができず、楽でいいななどと笑いながらカラの車を引きながら帰った。その帰り道で、当時は灯火管制があったにもかかわらず、周りの家がみんな戸や窓を開けっぱなしにしていて、昼間なのに灯りをつけたり、ラジオをおおきな音で鳴らしたりしていたので変だなと感じた。ラジオでは軍歌が勇ましく鳴っていた。亀井野の辺まで来るとラジオから玉音放送が聞こえてきた。周りの人に聞いて戦争が終わったことを知った。明けて16日、厚木基地の主力部隊である「小園部隊」が戦争終結に抵抗して、機関砲を射ちまくったりして、断固抗戦を訴えて騒いでいた。ただ、後に小園部隊が抗戦運動の中心だったと言われているが、実は陸軍の立川基地所属の飛燕戦闘部隊が中心となっていたようだ。というのは、見慣れない飛燕という戦闘機が厚木基地上空に飛来して、小園部隊に宛てた徹底抗戦を呼び掛けるビラを実際に見たからである。結局小園部隊は高松宮殿下が小園大佐を説得して解散させられた。何日かしてアメリカ軍が厚木基地に進駐してきた。最初は偵察機のようなものが基地上空をぐるぐるまわっているだけだったが、ついに着陸という時には、ダグラスの機体にフィリピンの地図が描かれているのまで見えた。着陸してからも見ていると、何か豆粒のようなものが次々に飛行機からこぼれ落ちたように見えたが、これがジープだった。これが基地の内外を道のないところやたんぼまで走り回り、当時はみんな初めて見るものだったので、アメリカの自動車はすごいものだと驚いた。その後も進駐軍のアメリカ人が農家に靴を履いたまま上がったり、たんぼでの作業を半日眺めていたり、日本の生活がよほど珍しく感じたのだと思う。麦と稲の違いがわからない米兵がいたので教えてやったり、たばこを勧められたりもした。彼等は墓地から墓石を持って行ったり、桜ヶ丘の金毘羅さんの狛犬も持って行ってしまったらしい。だからといって悪意があるわけだはなく、問題が起こったこともなかった。ただ珍しかっただけだろうと思う。(この文章は、編集者が山下さんから聞き取った体験をまとめたものです。)



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