戦争体験記「記憶」〜第1章「戦争被害」
「横浜大空襲の事」
花川久子
体験記録−3

 昭和20年5月29日、私は横浜の南区でB29の大空襲を受けました。
 あの日、朝出勤前に警戒警報のサイレンが鳴りました。会社の出勤は解除になってから行った方がよいか、と考えて居りましたら、しばらくたって空襲警報のサイレンがけたたましく鳴りひびいて来ました。私は朝早くから今日はどこを爆撃するかと思い、他人事の様に考えていました。裏の方へ行きましたら、いきなり空からバラバラと屋根に何か落ちて来ました。もう上空には敵機が来ていました。すぐそばの鉄工所が目標となって焼夷爆弾を落とされました。お隣のお兄さんが、「あぶないから家の防空壕に入りなさい。」と親切に言って下さいました。もうその時は、私のそばにも機銃掃射の弾ガバラバラと落ちて来ました。私一人しか家にいなかったので、「家の周りを見てから入れさせてね。」と言い表にとび出しました。もう道路の向い側の柴橋商会が燃えていました。左隣りの家の前まで行きますと、もう屋根から火の手が上がっており、私の家にかぶさっていました。私は何時も身につけている頭巾も雑のうも肩にかけておらず、まったく油断をしていた状態でしたので、急いで家にとびこみ雑のうを肩にかけ、頭巾をかぶり押入れをあけて着物などの入った行利を出そうと・・・・。でももう押入れはチョロチョロ燃え始めていました。あわてて柳行利を一つ、もう一つを入口まで引っ張って行き表へ落としました。父から頼まれていた金庫も忘れ、貯金通帳も今日郵便局に行く様にと、本箱のそばにおいてあったのも、母の位牌も全部出せません。とにかく2回家に戻っただけ、もう家の中は炎の渦の様でした。ものすごい勢いで燃えている我が家をみて、ただ茫然と立っていました。出したい物一パイあったのに・・・・。涙も出ませんでした。着の身着のままで何も有りません。唯一私が出した母の着物が入った行利が一つでした。家具屋の店を出して居りましたので、仕事場には色々な材料の木があり、父が鏡を仕入れて来ては鏡台を作り、いくつもいくつもお嫁に行かれるお客様が買って下さいました。色々な想い出のつまった我が家も、もう焼けおちてしまいました。子安の方の会社に行っていた父が、夕方山伝いに帰って来ました。石川町の鉄工所に学徒動員で行っていた弟も、夕方おそく山伝いに帰って来ました。
 「逃げて行く時に機銃掃射に合ったよ。お母さんが撃たれて倒れて、赤ちゃんが背中で泣いていた。どうしたかな。」と、「僕もあぶなかったよ。どうしても崖の上によじ登れなくていたら、後からおじさんが持ち上げてくれたんだ、それで山の上に出られて帰って来られたんだよ。」と言って居りました。きっと亡き母が守ってくれたのか、幸いにけがも少なくて、命だけは皆助かりました。表通りでは、私の家と隣りが焼けてしまい、裏の空地を境に右側が全部残り、左側は全部焼けてしまいました。翌朝焼け跡から遠く横浜港の船が、又伊勢佐木町の松屋、野沢屋等高いビルが、朝もやにかすんでボーッと、夢の様に見えました。今でも私の脳裏にまぼろしの様に浮んでくるのです。この光景は一生涯忘れる事は出来ません。
 10日間位たってから近所のお姉さんに、「焼跡にお皿とかあるから拾いに行かない。」と誘われて、黄金町あたりまで歩いて行ってみました。こんなに全部焼けてしまい、皆逃げられなかったのではと、あたりを見て足がすくむ様でした。私はお皿どころではなく大勢の人が死んでしまったのかと思い、悲しくなりました。お姉さんが拾ったお皿を2、3枚わけてもらって、一緒に帰って来ました。それから2度と焼跡には足は向けられませんでした。
 家の焼け跡からほじくりだしたお米(焼米)は食べられたものでは有りませんが、何もないので何でも食べなければ生きて行けない。母の銘仙(絹織物)の着物一枚とお米一升と取り替え、大事に食べました。着物は木綿のを残して全部お米と取りかえてしまいました。木綿の着物は父や弟のズボン、上着下着等皆私が作りました。何も売っていないし、自給自足の生活です。周りの人も皆同じ思いで生きていましたので、人にすがるなどとても考えられませんでした。貯金通帳は再交付に1年かかりました。そのために建売りの家が買えなくて、父はとても悔しがっていました。本当に生き抜いて行く事は大変な事でした。何もかも不自由だらけの中で、配給物資だけの生活は大変きびしいものがありました。それでもいちるの望みを持って、何としても生き延びなければと必死な思いでした。戦後50年、色々なはざまの中で平和の喜びをかみしています。
 今後廃絶が叫ばれているのに、フランスは南半球で核の実験を6回行うと言っていました。何でこんなに強硬に実験をしなければならないのか不思議です。原爆の苦しみを知っている日本人は絶対に反対です。そんなに実験をしたければ自国内でやればよいかと思います。海が汚染され、しまいに地球が大変なことになります。
 未来の人類の幸せのためにもこの地球から、戦争を二度とおこしてはならないと、心の底から訴えるものです。



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