戦争体験記「記憶」〜第1章「戦争被害」
「空襲罹災の想い出」
庄司 勇
体験記録−5

 私の空襲による罹災は、昭和20年7月4日夜半、四国高松市である。当時私はY生命保険会社高松支店に勤務していた。私の会社のビルは、5階建てで屋上には防空監視哨が設置され、ビル内に特設防護団が組織され私がその副団長を勤めていた。当時は既に日本の敗色が濃く、毎日のように全国あちこちの都市が米軍の空襲を受けていた。前記7月4日午後10時頃、高松市に警戒警報が発令され、私は国民服にゲートルを付け特設防護団員としてビルに駆けつけ屋上の監視哨に登って大空を眺めていた。午後11時頃だったか突然はるか徳島市方面に火の手が上がった。まるで花火のように空中に火花が飛び、大空が焼け尽くされる感を抱いた光景が今でも思い出される。これは米軍B29による徳島市の大空襲で、街の大半が焦土と化したのである。それから約1時間位たって今度は高松市に空襲警報発令、米軍B29、70機の来襲、焼夷弾攻撃を受け、一瞬にして市街の9割近くが焦土となったのである。幸いに私のビルは被害なく(終戦後米軍に接収され四国の駐留軍連絡本部となった)近くの県庁、警察署、三越百貨店等は見るも無惨に焼け落ちていた。私は明け方までビル内にいたが家族のことが心配になりビルを出て街を行くと、まだアチコチで家屋が燃えていて、道路には焼夷弾がくすぶっており、熱くて旧玉藻城跡の堀の水に入ったり、また時々米軍機が来襲し機銃掃射があり、その都度近くの防空壕に飛び込んだ。壕の中には空襲で負傷して血を流している人もたくさんいた。ようやくわが家(借家)にたどりついてみると家は丸焼け、家族(妻と1歳の娘)は見えなかった。当時隣組でいざ空襲の際は山手の高松高商の校庭に避難することに申し合わせていたので、そこへ探しに行ったが隣組の何人かには会ったが私の家族は見つからなかった。高商の体育館に罹災者の遺体が収容されていると聞き、行ってみると顔を白布で覆われた遺体がたくさん列べられていた。もしやこの中に私の家族も?の思いで白布をめくって見て歩いた嫌な思いを今でも忘れられない。しかし、私の家族は見つからなかった。また隣組の人に会って聞くと、妻は長女を背負ってこの校庭まで一緒に来たはずとのことだった。また他の人に聞いてみると、ここも危ないとのことで大勢の人が隣の香西町方面に避難したとのことだった。そこで私は町外れの知人の家で、おにぎりとサイダーの空きビンに水を入れてもらい、これを腰に下げて約4キロ離れた香西町を訪ねました。幸いに町の入り口に青年団の人が机の上にノートを置いて、そこを通って町に入った人の名前と避難先を記録してあり、調べてもらうと「庄子信子」「庄子正子」と私の家族の名前があり、町の中央にあるお寺にいるとのことで勇気百倍、急いでお寺を訪ね本堂の入り口に立って中を見ると数十人の人達が休んでいた。しばらく中をのぞいていると私の妻が私を見つけたらしく飛んで来て私の胸にとびつき「お父さん」と言ったまま泣き出し、文字どおり劇的対面をし、互いに無事を喜び合ったのが今でも忘れ得ないひとこまとして思い出される。
 50年後の今日、当時のことを省みて「戦争ほど残酷なものはない」の感を一人深く感じる。「平和を望む心」これは世界の誰も希求して止まない永遠のテーマであり世界すべての平和国家実現を祈念する今日この頃である。



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