戦争体験記「記憶」〜第2章「戦時中の生活」
「私の引揚記」
宮本政子
体験記録−8

 昭和16年2月、主人の宮本幸次郎が、軍属(*注1)志願で北京貨物廠勤務で渡支、2年の義務を終えて華北電業北京本社入社。社宅をもらえたというので当時留守(東京都目黒区上目黒5−2591)を長男(3歳)と生活しておりましたが、18年7月末、長男を連れ東京から北京行き専用の列車で3泊4日で北京に着き、主人と再会しました。
市内黄城垠の宿舎に4、5日泊まり、主人や山西省太原勤務になっていたので、早速10時間以上もかかって太原に着、またそこより1時間も先の蕗安に、また先の汾陽の社宅に落ちつき、会社の発電の仕事で占領先き先きへ転勤させられました。
再び太原へ戻ったのが19年3月、そして5月に次男が生まれました。
19年から20年1、2月までは居留民団からの物資の配給を受け、会社からは小ハイ(*注2)が1人つき、太太(*注3)と呼ばれ幸せな毎日でしたが、20年3月、太原は西安から東京空襲への一本道すじに当たっていたため、毎朝8時前後には空襲警報で子供を連れて防空壕通い。4月に長男を幼稚園に通わせましたが、3回か4回で空襲がはげしくなり、通園できなくなり、また太原市内にも2、3回空襲がありまhした。とうとう8月15日、社宅全員集まってラジオの停戦を聞きました。
それからは会社も主客転倒で、中国人が会社を支配するようになり、日本人の社員は用がなくなり、毎日家財道具を売り払って引き揚げの準備をするようになりました。引き揚げは会社と民間人とに分けられ、12月、1月は海が凍るので3月ごろになるかもしれないという噂。とうとう会社ぐるみ、20世帯くらい(そちこちの支店からも)近くの日本人女学校に集結され、食物の配給は男性がやり、女、子供は何も用がなく、ごろごろできた物を食べさせられていました。いよいよ1月末ごろ貨車1台で1時間走っては停まり、ここは八路軍(*注4)が出るから貨車から出ないようにといわれたり、途中の駅(石家荘〜石門)は治安がいいというので外に出て、ご飯を炊いたり、とにかく何日かかって北京に着いたかすっかり忘れてしまいました。とにかく、1、2月で寒いのでどこも雪が降っていたように思いました。
北京の貨物廠は広々としたところで、大勢そちこちのグループと一緒になり、何日泊まったか忘れてしまいました。
次男は歩かせ、荷物は主人と長男と私がリュックとトランクで運びましたが、天津から塘沽の船に乗るまで次男の熱が下がらずおんぶしたので、リュックの荷物もずいぶん整理してしまいました。せっかくきれいに始末梱包した荷物も最後の乗船のときに全部点検されて、また後始末が大変でした。
塘沽より上陸用船艇に乗り5日目(4泊)に山口県仙崎に入港しました。みんな本当に喜びました。3月27日に上陸、恐ろしいことに2、3歳の子供さん達が熱を出し、医者にもかかれず、薬もなく毎日、一人、二人と亡くなり、土葬して衣類と髪の毛を箱に入れて持ち帰った人もいました。また船中で亡くなった子供さんは毎日水葬。うちの子供も熱が下がらないので本当に心配しました。
仙崎の収容所はお寺だったのにはびっくりし、また子供もハシカになっていたのですぐ帰れず10日ばかり世話になりました。
役所から支給された一人当り千円、4人で4千円のお金で、珍しい(東北生まれなので)ザボンや夏みかんを買い込んでおいしくいただきました。4月になってから、岩手県水沢の私の実家と、茨城県筑波の主人の実家に寄ってふとんを一組ずつもらい、東京の知人宅に世話になりました。
80歳を過ぎて、すっかり忘れてしまいましたが、2人の子供は当時の事は分からないと言っていますし、主人も40年前に亡くなりましたので、一人思いをめぐらして書いてみました。

注1軍属 
軍人でなくて軍に所属する文官など。
注2小ハイ 
家事手伝いの男の子。
注3太太 
奥さん、夫人のこと。
注4八路軍 
抗日戦争期に中国北部で活動した中国共産党軍。後に人民解放軍と改称。



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