厚木基地の誕生                 
〜昭和16年軍都計画と厚木基地誕生〜
 基地の歴史は、昭和13年に旧日本海軍が航空基地として定めたことから始まり、昭和16年には帝都防衛海軍基地として使用が開始された。その後、昭和20年の終戦により連合国軍を構成する米軍に接収され、昭和25年には米陸軍から米海軍に移管され、以来、米第7艦隊の後方支援基地として、現在に至っている。
 この間の昭和46年には、基地の一部が海上自衛隊に移管され、日米共同管理体制が採られるようになった。これにより米海軍は「厚木航空施設」として、また、海上自衛隊は「厚木航空基地」として、日米共同使用の基地となっている。

 接収当時の管制塔管制塔(提供:米海軍厚木航空施設)

連合軍先遣部隊は厚木基地に着陸すると、海軍航空隊の指揮所を航空管制の拠点として使用した。
                      

             

1950年ごろの管制塔(提供:米海軍厚木航空施設)     管制塔
塔には「イメージタワー」の文字と日本語による
「厚木基地飛行機空中輸送協力部」の看板が掲
げられ、日本側の緑十字機の連絡飛行のコント
ロールもここで行われた。        
   管制塔
機体処理 (提供:米海軍厚木航空施設)
昭和20年8月25日から戦闘部隊の武装解除が始められ、プロペラをはずされた飛行機はスクラップヤードに集められたり、基地周辺の谷に投げ捨てられた。
機体処理


先遣部隊厚木基地に進駐(提供:米海軍厚木航空施設)厚木基地

60機からなる輸送機部隊が厚木基地に着陸した。これらの先遣部隊は、人員、物資の輸送、基地の設営、マッカーサー元帥一行の受け入れ作業に忙殺された。

厚木基地
                  

厚木基地に到着したマッカーサー元帥(提供:米海軍厚木航空施設)
 昭和20年8月30日午前、マッカーサー元帥の先陣として、1,000人を超える将兵や連合軍各国の報道関係者を乗せたC−46やC−54が続々と飛来し最高司令官の受け入れ準備に忙殺された。
午後、専用機ダグラスC−54「バターン号」はマニラから厚木基地に着陸し、コーンパイプを片手にマッカーサー元帥はタラップを降り立ち、将官達の歓迎を受けた 
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マッカーサー元帥
各国記者に囲まれるマッカーサー元帥(提供:米海軍厚木航空施設)
  マッカーサー元帥はステートメントを発表「メルボルンから東京までは長い道のりであった。・・・しかしこれで万事終わったようだ。」
 マッカーサー元帥 

  マッカーサー元帥


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