4.「私の戦時生活」鴨井勇さん
体験記録-4
春まだ浅い昭和20年4月13日の夜だった。夕方から警戒警報が何度か鳴ったので、13歳の私は19歳の兄と共に東京、神田三崎町の自宅で、黒いフードを覆った電灯の下で食糧と学用品を詰めたリュックサックを脇に置いて寝た。3月10日夜、サイパン・グアム・テニヤンから飛立った超空の要塞B29、334機は江東、深川区を中心に3時間にわたって約2千トンの焼夷弾を落下させ、死者8万人余り、負傷者4万、罹災者百万を生じさせた。被害のほとんどが一般住民だった。私たちの頭上に何時、焼夷弾が降ってきても不思議ではなかった。その夜11時に空襲警報の断続音が町に響き渡った。
私は兄と裏通りの片側に掘った防空壕の中で息をひそめて、近所の人達とうずくまっていた。高度約千メートルの上空を無気味なエンジン音を発しながら、B29は暗黒の夜空に銀色の巨体を月光に反射させながら飛来した。
その数は約30機だった。突然上空からパラパラと銀色の円筒形の集合物が落下してきた。それ等は次々に空中で分散し、道路・ビル・木造住宅・庭などに激突し青白い焔を吹き上げた、油脂焼夷弾である。
アスファルトの道路に落下した焼夷弾は、カランカランと乾いた金属音を立てて先端から火を吹いた。たちまち道路は昼間のように明るくなった。人々は防空壕から飛び出し、それぞれの自宅へ走った。私と兄は真暗な玄関から家の中に入ったが、まだ何も燃えておらず静まり返っていた。火が我家をつつむのはまだ時間が充分にあると思った。兄は2階に上り、日本刀を一振り手に持って降りてきた。私は何をしたら良いのか判らなかった。
その時、自宅の前の路地は、焼夷弾が無数に転がり、火を発していた。油脂特有の粘着性の焦臭い空気が、辺りに立ちこめていた。
火勢に煽られた熱い空気が上昇し、電灯が垂れ下がって燃えている。火の粉が舞い上がり、一刻も早く脱出せねばならなかった。
兄と私は防火頭巾を用水桶の中の水に浸し、毛布を水に浸して頭から覆った。燃えさかる火の温度で毛布はたちまち乾いてゆく。油脂が素足に付着せぬよう路地を通り抜け広い道路に出た。あちこちで町の人々は荷物を担いで火のない方角へ走った。誰も他人の事には関わっていられない、パニック状態で、人々は本能的に走り回った。町全体が火につつまれては、防火訓練も役に立たない。皆が我身を守るのに精一杯だった。
我が家の隣りの婆さんが大八車に家財道具を積み、うろたえる爺さんを叱咤しながら、ガラガラと押してゆくのを目撃した。
普段から強気の婆さんが、このような非常時でも気丈に動く姿を見て、さすが明治生まれは違うものだと感心した。
私達は火災の及ばない駿河台へ逃げた。そこは全く静かな別世界だった。振り返ると三崎町一丁目は火の海に包まれて、水道橋の駅も炎を上げていた。家も家財も一切失った状態であったが、子供心にあまり物資に対する執着心はなかった。むしろ前日に配給された米3升が燃えてしまった事が残念だった。リュックサックに入っていた食糧は茶筒に入った焼米(※注1)だけだった。
間もなく夜が明けて来た。私達は、御茶の水駅の近くに来ていた。兄は言った。「父が心配しているだろうから、坂を下りてみよう。」父は警防団に加わっていた為、自宅には居なかった。小川小学校へ行くと罹災者が講堂に大勢座っていた。皆、空襲で命からがら逃げてきた者ばかりであったが、お互いの顔を見てほっとした表情だった。昼頃やっと父が姿を現した。「お前達は無事だったのか、何よりも嬉しい。良く助かったものだ。」と言って心底から喜んだ。小学校で配られた、握飯を食べてやっと人心地がついたが、さてこれからどこへ行こうかと思案した。父は私達2人を連れて、神田駅に近い旅館に入り数日宿泊し、それから兄が勤務していた三鷹にある航空機部品の製造会社である中西航空に向かった。そして私達3人は、この会社に勤務する事に決定した。父はメッキ屋であったので、メッキ工場へ、兄は設計部、私は部品倉庫であった。毎朝、吉祥寺の会社の寮を出て、約30分徒歩で三鷹・下連雀の工場へ通った。吉祥寺へ来てからもB29の空襲は毎夜のようにあったが、その目的は中島飛行機府中工場の爆撃であり、吉祥寺の町は比較的安全な地域だった。しかし日常の食生活は極端に貧しかった。とうもろこしの粉、じゃが芋、さつま芋、大根等が主食であり、米は僅かな量しか配給されなかったので、いつもお腹がすいていた。お菓子は砂糖がないので滅多に食べられなかった。食べる事が生活の目的であった。米は貴重品で、芋や野菜の入った鍋に米粒が浮いていた。
注1 焼米
生米をホーロー鍋で炒ったもの。戦争当時の一般的な非常食だった。
更新日:2022年02月01日