6.「青春の思い出を胸に半世紀」八田三郎さん

更新日:2022年02月01日

体験記録-6

昭和16年12月8日、当時19歳だった私は小笠原・父島で海軍建築部の下請け会社の一員として、潜水艦基地の建設工事現場で働いていました。開戦のニュースに緊張したことが昨日のように思い出されます。
15年、東京・日本橋で古美術商を営む叔父の店を手伝っていた私に好きな女性がいました。春子という初恋の人です。
そのころ日本は中国大陸での戦争が激しくなり、皇紀2600年記念の祝賀式典があり戦勝気分に酔っていたところでした。
15年11月田舎で暮らしたいという春子の希望と古美術商という、戦時下にふさわしくない職業に疑問を持っていた私は彼女の故郷小笠原・父島へ一緒に渡りました。
当時の父島は、日本の南の防衛線であり海軍の前進基地であったので、島民2000の外に陸軍防衛隊、海軍防備隊、横須賀海軍建築部の軍人・軍属、潜水艦基地建設のための徴用工、下請け会社の労務者など2万とも3万ともいわれる人達がいて、見知らぬ孤島で静かな甘い生活を夢見ていた私は、上陸第一夜にして現実の厳しさを知らされました。
春子さんは実家に帰り、私は彼女のお兄さんの世話で近所で間借りをして3日目から基地工事の現場で働きました。
工夫が崖に穴を掘り爆破して切り崩し、そこへダイナマイトを運ぶ仕事でした。なれない労働でしたが、一日も早く生活の基礎を作り所帯を持てるように夢中で働きまhした。
毎日仕事から帰るのが夜7時半、急いで食事をして8時ごろ春子さんの家へ風呂をもらいに行くのですが、家族が多く出入りの多い家でしたので、2人だけでゆっくり話しもできませんでしたが彼女の顔を見ているだけで楽しい日々でした。
その楽しみも、残業が続き帰宅が夜9時から10時になる日が多くなると風呂にも行けず、思うように会えなくなり休日も狭い島内では人目もあり2人だけで語り合う場所も少なく、家族と一緒にお茶を飲んだり世間話をして春子さんと過ごすのが休みの一日でした。
17年4月徴兵検査のため一時東京へ帰りました。検査では痩せていて体重は47キロであったこともあり、第二乙種第一補充兵となり、検査官に、そんな体でお国の役に立つのかと言われて頭にゴツンとやられたことを覚えています。
検査修了後再び父島へ渡り現場に戻り、仕事は私が不在の間に交替要員が補充されていたので、自動車の修理工場へ回されました。新しい仕事に慣れるまで苦労しましたが、そのときの経験が後に軍隊や復員後の役立ちました。
17年11月23日の昼ごろだったと思いますが「お召し、きた12月1日入隊」の電報を受け取り、職場の皆さんの激励の言葉に送られて下宿からもどってから、春子さんに召集がきたことを伝えました。急いで父島憲兵隊へ行き、12月1日に間に合わないかもしれないので手続きをしたところ、明朝5時横須賀に帰る軍艦がある、それに乗れるよう手配したから朝3時に岸壁に集合するようにと言われて憲兵隊を出ました。
明日3時集合5時出港が決まったことを彼女に知らせに行くと、今夜家族で送別会をするから待っていると言われました。そのとき春子さんの目が赤く声がふるえていたことが懐かしく思い出されます。下宿へ戻り、荷物を整理してから春子さんの家へ行ったのは8時すぎでした。
春子さん一家の兄弟・親戚・近所の人達大勢で送別会を開いてくれましたが、彼女と二人だけで話すことができたのは宴の終わった11時すぎ、下宿へ帰るときに、表へ送ってくれた僅かな時間だけでした。
暗い植え込みの陰で手を握り「生きて帰って来られたまた会おうネ、サヨナラ。」これが最後の言葉でした。
このとき、春子さんが古い毛糸で編んだお守り袋を渡してくれました。あとで開けてみると便せんに「無事にお帰りになることを祈っています。その日が来ることを待っています」と書いてあり、中に髪の毛が包んでありました。アッという間の別れでした。
11月25日、朝横須賀上陸、午後東京・荏原区戸越(現・品川区)の我が家へ帰り、29日東京出発、30日浜松駅高木旅館に宿泊、12月1日三方ヶ原・中部97部隊(第二航空教育隊)に入隊、自動車操縦訓練を受け、18年4月満州第8398部隊(第二航空気象連隊)に転属、第7中隊に配属され三江省佳木斯の中隊本部に服務していました。
春子さんから貰った大事な毛糸のお守り袋は、中部97部隊に入隊して3日目の初年兵私物検査のとき、上官にどこのお守りだと聴かれ黙っていると開けられて、中から無事帰ってきてくださいと書いた紙が出てきたので、「きさま、これからお国のために戦争に行くのに生きて帰ってくる気か。」と、怒鳴られなぐられた揚げ句ポイと捨てられてしまいました。
このときの、せつなく悲しい思いは忘れることはできません。
20年5月末、所属中隊は沖縄戦増援部隊として満州を出発、6月初め朝鮮半島に入り南鮮の太田市の日本人小学校で待機中、6月23日沖縄戦終結。満州へ帰される、沖縄を攻撃する、本土決戦に備える、などなど情報の混乱しているうちに8月15日終戦、アメリカ軍が進駐してきたので南朝鮮にいた日本兵は、武装解除されて復員がはじまり、私も10月下旬に復員してきました。
私達より7~10日早く満州を出発した部隊は沖縄で戦死するか途中で撃沈され、5~7日後に発した部隊は北朝鮮でソ連軍に攻撃されるか、シベリアへ抑留されました。
無事復員した私は運がよかったことになりますが、守ってあげなければならない満州開拓の同胞を置き去りにして移動した兵隊が、先に祖国へ帰ったことは申し訳なくて、運がよかったでは済まされない気持ちの負担を感じています。

(この文章は大和市女性プランを推進する会作成の戦争体験記集にも掲載されています。)