9.「戦中・戦後の生活」伊藤美登さん
体験記録-9
「八王子市の空襲に遭う」
八王子市で焼夷弾(*注1)爆撃を受けたが、八王子市では、空襲の2、3日前米軍がビラを撒いて、8月2日の夜間、焼夷弾による爆撃をする旨八王子市民に知らせた。私は米軍指定の空襲日の当日は休日であったので、下宿先の老婦人が近郊の親戚に避難したので、老婦人の寝具や衣類などを老婦人が作った防空壕に入れて土をかぶせた。そのため防空壕に入れた老婦人の持ち物は助かったが、私の持ち物(寝具、衣類、日用品)は燃えてしまった。空襲の状況は、私は隣組の人と防火に努めたが、焼夷弾の数が多く火の廻りが早かったのと通行の路地が狭いため、近所のお寺の墓地の欅の下に待避、避難した。空襲の状況は、焼夷弾を町の周りに投下し、燃え上がって明るくなったところで、町の中心部に再度焼夷弾を落としたので、街はほとんど全焼した。けが人も多く出た模様であった。八王子市は銘仙の産地で問屋の土蔵が多かったが、ああ「くら」は助かったと、火災で高温になった蔵の温度の冷めないうちに蔵を開けた家は、再び蔵が火を吹いて焼けてしまったという話であった。また、私の妻は妊娠のため、実家のある愛知県豊橋市に疎開していて、昭和20年6月、被爆罹災した。なお戦災による救恤品(*注2)は、一世帯当たりであるため、私たちのように分かれて生活していた世帯は救恤品の給付は受けられなかった。
「軍需会社に徴用される」
軍人として出征できない蒲柳(体質が弱いこと)の者は、軍需工場に徴用工として行き、働いた。
私は、昭和18年5月に結婚したが、同年11月、徴用工として徴用された。
徴用会社 東京都立川市高松町
立川飛行機株式会社協力工場課
飛行機で教練をやったが、着せられた服の品質が悪く、目の粗い品物だったので飛行場の吹きさらしの中で寒さに震え、痔疾となり、通勤に困ったが、休暇を貰い郷里で治療した。徴用工として実技見習いも2、3やったが、グラインダーの取り扱い方を実物でやったのが印象に残っている。
実務としては、協力工場課という課に配属となった。作業は、立川飛行機株式会社の協力工場の製品の発注別、受注別、製品別、品目別に集計整理して、出来上がりを青焼きして会議に出せるように作成した。その係は係長、主任、徴用工男女で2人、計4人いたが、1年位かかっても集計できなかったようであったのを私一人で一週間で仕上げた。そのためその後も立川飛行機に勤務するよう勧められた。
「戦時中の結婚式」
昭和18年5月6日、私は郷里豊橋市で、豊橋の父の友達の娘と結婚した。結婚式は豊橋市の郷社吉田神社で神前結婚式を挙げた。式場は市営だったので神主や稚児も市の職員であったようだった。披露宴も神社でした。記念写真は写真館にいって撮ったが、花嫁だけ自転車にサイドカーをつけ幌で囲ったのに乗っていき、花婿は歩いていった。また、披露宴のお酒は配給があり、各一升宛計2升だった。
「徴用が解除となり元の会社に戻っての生活」
世田谷区北沢四丁目に会社の寮がありそこで生活した。寮は六畳一間で炊事場、洗面所、便所などは共同だった。ここで夫婦子供3人が9年ほど暮らした。風呂は木製のがあり、交代で沸かして入った。燃料はオガクズを南京袋に入れて運んだ。当番が道路で乾かしてから燃やすようにした。炊事の燃料は薪をコンロで燃やしたので、家中真っ黒になった。また木炭は統制だったので、清川村煤ケ谷まで買いにいき、行きはバスに乗ったが帰りは本厚木駅、愛甲石田駅までリュックに2俵入れたり、しばったりして歩いた。この買い出しは乳児用だけだった。風呂にもあまり入れず、石鹸も乏しく、不潔な服装となり、しらみをわかす人や子供が多く、電車の中でも知らずにしらみをつけている人、頭にわかしている子供がいた。このように住居も衣類も衛生状態が悪いので、いろいろの病気と生活困難のため、妊娠していても育てる自信がなく、妊娠中絶をする人も多かったようだ。また、お酒の好きな人はメチルアルコールを飲んで失明する人もあった。病気は肺炎が多かったようだ。結核療養のための休職期間が切れて退職になる人も出た。肺病の薬、手術も進み、近頃は少なくなったようだ。最初の頃はストレプトマイシン(*注3)で耳が遠くなった人もいたようだ。昭和25年、26年頃は脊髄性小児麻痺(ポリオ)が流行した。その他、戦中、戦後には木炭自動車が街中を走っていたり、闇米の買い出し、芋などの食料代替品の買い出しなどの話があるが省略する。しらみの話は、進駐軍が来て、DDT(*注4)を散布して絶滅した。
注1 焼夷弾
油脂などの焼夷剤(燃料)と少量の炸薬(着火用火薬)とを入れた爆弾。火災を発生させることが目的。日本家屋への攻撃には特に効果があった。
注2 救恤品
被災者などを救うために配られる日用品
注3 ストレプトマイシン
抗生物質の一種。細菌性疾患に効く。ここでは肺結核の治療に用いられた。
注4 DDT
終戦後、国民の衛生状態が悪く、しらみやのみが繁殖していたが、これらを殺虫し消毒するために米軍が使用した薬品。現在は使われていない。
更新日:2022年02月01日