14.「戦後50年に憶う」村上淳男さん

更新日:2022年02月01日

体験記録-14

終戦から50年、戦前・戦中の辛い経験と、戦後のソ連抑留生活後、経済復興に励んで来た私としては、この機会に是非書き残しておきたいと思って筆をとることにした。
さて、今年平成7年は、前年の北海道・東北地震のいやな思い出を引きずって予想もしない阪神・淡路島大震災に見舞われての悲しいスタートとなり、その後、これまた世界でも例を見ないオウムの大事件のゴタゴタで半年を経過し、この間経済も、バブル経済破綻の後始末と円高に頭を悩ましている。
このようななさけない局面を迎えての戦後50年の幕開けをどう受けとめたらよいのだろうか、ソ連抑留の思い出を語る前に一言申し述べたい。
第一に、日本戦後の経済復興と災害対策がこれでよかったのか、危機管理の問題も含めて根本的に見直しが必要である。余りにも経済優先、利益第一主義に走り過ぎた嫌いがある。
第二に、終戦を契機に、すべてのものをかなぐり捨ててしまい、戦勝国の生活様式にあこがれ、日本人のバックボーンを育てる教育という重大問題を軽視した嫌いがある。
第三に、21世紀を迎える残された期間に、政治・経済・教育・社会の萬般にわたって大改革を実現しないことには、日本は先進大国に伍して発展できない心配がある。
本題のソ連抑留生活についてであるが、最初に入隊から帰還までの日程を参考までに次のようにまとめた。
昭和18年 金沢で学徒動員で入隊、渡満。
昭和19年11月 新京陸軍経理学校卒業、満州第三軍司令部配属。
昭和20年8月 終戦(延吉)11月3日延吉発、12月3日ソ連ラーダ収容所着
昭和21年7月 ラーダ出発、8月エラブカ収容所着
昭和22年10月 エラブカ出発、カザン経由、ナホトカ着、11月函館港上陸(雲仙丸にて)
昭和20年8月15日正午の玉音放送をきいたのは、第三軍司令部経理部の将校集会室で、経理部長から、軽挙盲動をつつしみ、ソ連司令官の指示を待つように、とのことでついに終戦、痛憤、悲嘆、諦念が入りまじる。
両側2段収容の貨車に肩巾程度のスペースを与えられて「ダモイ東京(帰京)」のソ連兵の掛声を信じて乗車、しかし満州北端の「黒河」で汽車は西進(東進すれば帰国可)、全員虜囚の身を覚悟。途中停車駅での住民による略奪には驚いた。
1ヵ月間の貨車の旅でウラル山脈を越え、ラーダ駅に到着、ここから収容所まで2泊3日の強行軍、足が弱って歩行困難、やっと収容所に着いて軍力をソ連に渡す。同じ収容所にドイツ捕虜が若干残っており、将来、日・独は世界の指導的役割を果たす時はきっと来る、と語ってくれたのが忘れられない。
エラブカ収容所へ移ってからは自活のための燃料伐木が主な仕事で、食料も若干よくなったといっても1日2食で、朝、黒パン一切と砂糖少々、夕食は、じゃが芋少々、病気入院しなければ米カーシャ(雑炊)は食べられない。やむなく、野草や、ねずみを捕って栄養補給につとめた。