18.「平和を願うための過酷な戦場の一面を」根岸俊郎さん

更新日:2022年02月01日

体験記録-18

北海道旭川市の第7師団歩兵26連隊機関銃中隊に昭和13年1月入隊し、師団が北満のチチハル北大営に駐屯し関東軍の隷下に入り、昭和14年6月25日午後5時頃に戦火の拡大しつつあったソ満国境のノモンハン戦線へ応急派兵令で戦場へ。
編成は、小松原兵団の須見部隊高橋大隊機関銃中隊で、分隊長代理の4番射手だった。ノモンハン事件発端の地、ソ満国境の将軍廟に着くと、いたる所に砲弾の穴があり、先発隊はその穴に天幕を張り寝起きしていた。ノロ高地やバルシヤガル草原、日の丸高地で戦火を交えたが、戦場全部がソ連軍の日常使う演習場なので、第一発から至近弾や命中弾を受け戦死傷者が続出、いたる所で負傷者のウメキ声が聞こえ、戦場は異様な場と化し「これが戦場だ」と実感した。ある本ではノモンハン事件の戦場を評して「死せる戦場」といってた。友軍の戦車は、草原に張られたピアノ線にキャタピラをからめて前進不能、ソ連の一斉攻撃で全滅した。戦火の分岐点となったノモンハン事件最大の激戦地の「ハルハ河渡河戦」には「敵戦車約80台、我が陣地に向け前進中」の偵察機の信号筒投下で、川幅約80メートルのハルハ河を工兵隊の架橋により渡り、陣地展開中に稜線上よりソ連が誇る戦車軍団の先陣を切って小型BT戦車が続々と前進。火炎瓶や戦車地雷や後方支援の野砲の砲撃でかく座炎上せしめたが、後続の大型BT戦車には手足も出せず「タコツボ」に入ったきり身動きできず、戦友らも戦車砲などの直撃を受け、一片の肉片すら残さず戦場は「阿鼻叫喚」累々とした両軍の戦死者や負傷者で衛生兵が飛び回り凄惨な場となっていた。
ノモンハン事件勃発から僅か5か月の戦闘で友軍は約8,600人の戦死者と約1万人の負傷者と行方不明者を出し、大和魂の人肉戦対鉄甲戦車軍団の戦火も9月16日停戦となった。
当時の行方不明の戦友が現在ソ連領で生活している人もいるそうですが、心からなるご健康とご自愛を祈念いたします。
昭和62年10月4日の全国ノモンハン会の慰霊祭(靖国神社)にて奉納した自作の戦友を偲ぶ「鎮魂歌」です。
今年も逢えたよ九段坂
1戦友を失い我一人
今靖国にぬかずきて
遥かに偲ぶノモンハン
戦友よ安らえとこしえに
追想
目標ハルハ河三本松 百五十 各個十発
射て ヨーシヨシ 続けて各個十発
連続射て 銃下げ銃下げ
2ハルハの河の渡河戦に
逆襲知らせる伝令の
鮮血そめしあの砂丘
今ぞ瞼に鮮やかに
追想
敵襲 敵襲 伏せ 伏せ ヨーシ正面各個
射て 射て アッ戦車だ戦車だ
つぼに入れ タコツボに入れ
3崩れ落ちるタコツボで
ソ連戦車に体当たり
爆薬仕掛けた亡き戦友よ
今年も逢えたよ九段坂
今年も逢えたよ九段坂
合掌