20.「タイ国「シンゴラ」の砂浜へ泳ぎつく」近藤文行さん

更新日:2022年02月01日

体験記録-20

ヒュルヒュルという、砲現弾のようなうなり声。来たな、と思うと案外遠いところで砂煙をあげて炸裂する。「シュッー」という音の
場合はすぐ近くで砂煙をあげる。当たれば死ぬんだな、と思ったが少しも怖くはなかった。国のために死んでもそれは当然だと信じていたせいであろう。
昭和16年桜花爛漫の4月、神奈川県高座郡大野村、東部88部隊(旧近衛電信第一連隊)に入隊。同年10月勇躍として芝浦港出航、中国広東にて耐暑戦闘訓練。11月20日黄鋪出航、駆逐艦と対潜機に護衛された三重数隻からなる輸送船は、南シナ海上を波を蹴り立てて一路南進する。その様子は正に「嗚呼堂々の輸送船団」であった。
12月8日、開戦初頭のマレー作戦の奇襲上陸。山下奉文司令官統帥による第25軍は、疾風のごとく勇猛果敢千余キロ南のシンガポール攻撃作戦と続く。
この日早朝、私たちは船上にてタイ国の服装をした先行隊の戦友を見送る。これが今から戦争に行く姿かと胸にせまるものがあった。
海の波は高い。不安定な縄梯子より死にものぐるいで大発(上陸用舟艇)上の人となる。暫くして陸地を望む。しかし着岸はならず。38式騎兵銃、通信機と40キログラムもの武装した身体で海の中へ飛び込む。幸い身に付けた救命胴衣に助けられ、片手で波をわけ夢中で泳ぐ。海底に足が着いた時はしめたと思い爪先に力を込め浜辺に這いあがる。小休止も暫時、早速に軍事令部の連絡通信構成の命を受け各部署の作戦行動に入る。
昭和17年2月17日、陥落したシンガポールは昭南島と改名される。この作戦で斃れた三千五百余柱の霊に山下軍司令官以下全軍、私もその一人として敬虔なるお祈りが捧げられた。
昭和20年8月15日、日本軍降伏。終戦直後、自決すべきか、逃亡して再起を図るべきか、従順に大命に従うべきか、運命の岐路に立って眼を血走らせていた時。マラピイ山の麓パダンパンジャン(中部スマトラ)の中隊に集結した兵士を前に、涙にむせびながら訓示をした若い30歳の隊長の一言一言をかみしめずにはいられない。「もう一度、この折れに命を預けてくれぬか。おれも士官学校出の軍人だからみんな以上に口惜しい。だが俺は大命に従うことに決心をした。個人としてならば勝つことを信じて死んでいった戦友に対しても降伏することはできない。逃げもしたい。けれども俺は軍人であり諸君の親から、陛下から諸君を預かっていることを忘れない。軍人としてもっとも正しいと思う途を諸君と共に歩もうと決心した。もう一度この俺に命を預けなおしてくれ。」隊長の無念さと、部下を思う気持ちがよく解った。今もあの時の言葉を私は忘れられない。

日本降伏軍人収容所。
(シンガポール残留作業隊員の手記)
熱帯の暑い日射をまともに受け、破れタオルを肩に拡げて、中国やインドの労働者たちの食べる氷菓子をチラリと盗み見ながら、わずかなタオルの涼に自らを慰めねばならぬ。
作業を終えキャンプに戻りニッパ椰子小屋でささやかな夕食を終えた夜空には、ゴムの屑の上に南十字星があった。十字星の下にある星の光は、美しく赤や青緑に色を変えながら煌いている。6か年半。思えば長い軍隊生活、その最後の一年半の作業隊生活は長く感じられた。
空腹と栄養失調、作業を通してのあの罵倒と虐待、現代人からの投石等々、こんな試練に堪え忍んできたのも隊員の強い団結と戦友愛があったればこそと思われてならない。
「国破れて山河あり」祖国はいま、虚脱の中から動き始めているのか、破壊的なことがおこなわれてはしまいか、どんな状態になっているのか知る由もないが。今はただ「祖国」のある幸せをかみしめて、変わらぬ山や川、そして故郷の人達を描き、1日も早い内還の日を待つ身であった。
昭和22年9月復員、佐世保上陸。
戦場から祖国へ、兵隊から地方人へ、29歳の私は多彩な年月を経験した。生涯で一番瑞々しい時代を戦争に打ちひしがれた大正生まれの(中には明治生まれの)私たちには、戦後がむしゃらにがんばってきた。
ふとあたりを見回すと、いつの間にか、「君定年だよ」と肩をたたかれていたという実感だろう。私もすでに齢い77となる。「本日戦後50年平和を誓う」終戦記念日に当たり、全国戦没者追悼式が挙行され、全国の皆々様と共に幾百年の戦没者の幸福を心からお祈り申し上げた。戦後50年。その日を体験した世代が年々少なくなる。過去に学び、今を見つめ、明日に誓う。生きながらえた人生を意義あらしめるよう力を注ぐことを誓った。