21.「北支戦線に参加して」木下欣一さん
体験記録-21
昭和18年4月上旬 行動開始
私は現役兵(兵役によると従軍兵)として北支(北部中国)の河南省に派遣されていた。我が中隊は、河南省西鹿楼に中隊を置き、鶴壁集を分担して警備した。西鹿楼は西に大行山脈の山々、そして鶴壁集は炭坑の町で大行山脈の山々がそびえ立っている。
4月上旬、出動準備に追われる。一方においては警備地区における敵の行動が活発のため、4月5日朝、中隊長訓辞で警備地を後にして大隊本部の湯陰に各隊が集結した。そして黄河南側の敵を掃討するため今回行われる足慣らし討伐作戦は、次の山岳戦に備えてのこと。準備着々次の作戦行動を待った。
4月20日 第一線突破前進
午前一時出発。18年春太行作戦の幕は切って落とされた。目的地に向かって前進。私は部隊長のすぐ後を行軍していたので、いかにして第一線を突破して前進するか各部隊長と話しているのが手にとるように聞こえてくる。今朝は風向きもよいので、煙幕を使って突破するとの話。一寸先も見えない真っ暗闇を黙々と歩くこと五時間、思ったより時間がかかったので目的地に着いた時には夜が白々と明けて風もおさまり、あちこちから聞こえる銃声。早く鉄帽をかぶれとの声。その内にだんだんと銃声が激しく、頑強なる敵の抵抗を受けて前進を阻止されたが、我が中隊は第一機関銃中隊の応援により交互に前進して高地を占領した。山岳地帯の道なき路を前進前進して高地を占領し、交代で昼食をとる。その時すでに水筒の水はなくなり、目の下には川が流れているので戦友が交代で汲みに行くが、撃たれてどうしても目的が果たせず、前進することにした。山岳地帯を前進前進して最後の総攻撃により高台の望楼を占領する。
今思うと苦しかった。どろ水をすすって草を噛み、銃を杖にしてよじ登った望楼を占領したことが思い出される。銃声はいつしか止んで深い闇に包まれたが、風が強く望楼に立っていることができない。敵の攻撃に備えて望楼の周りに数人で壕を掘る。一方では二人一組になって水を探しに歩く。やっと水が見つかり皆で喜んで水を飲み夕食をとる。命令により全員が本部に集結し、明日の命令を待つ。
21日 軍旗護衛
朝起きて目をこすりながら水筒、飯盒を持って水をもらいに行く。大勢の人が並んで待っていたので時間がかかった。一つの井戸だけで一個連隊千人をまかなっていた。朝食の準備に取りかかる。飯盒一杯の水で一日の飯を炊く。まず米の中のごみを拾う。戦友の研いだ水をもらい飯を炊く。やっとのことで朝食をとる。
この日、我が大隊は軍旗護衛を先頭に前進した。山岳地帯を前進前進して太行山脈の中の目的地、臨淇盆地の近くまで前進する。
22日 臨淇入城
我が小隊は午前四時出発。左第一線を受け持ち、臨淇盆地の南側の高地を占領した。朝霧が晴れて目の下に林其の臨淇の町。東西南北の各高地から上るのろし(発煙筒)で臨淇の町は我が軍によって完全に包囲された。敵の動向を見ながら警戒した。午前九時我が軍の飛行機二機が来て臨淇を爆撃すること一時間。終了と同時に各隊はいっせいに臨淇に入城した。要所要所には何々部隊の立て札が立ち警戒が重々しい。
23日 武装解除
朝、広場には敵隊長以下兵約二千人が整列していた。中国の「新編第五軍」孫殿英中将の率いる部隊を追いつめてついに降布伏させ、武装解除を行う。兵二千人を捕虜とした。
数日後、我が部隊は軍旗を先頭に、連隊本部のある新郷に軍関係、市民居留民が日の丸を持っての出迎えを受けて無事帰還した。感概無量だった。一週間後我が一大隊は新警備地の四塞ならびに臨淇に進駐した。
数月後あらゆる準備が整い、夏の18年太行作戦に出発した。7月に作戦は終了した。
昭和19年からは河南作戦に参加したが警備のみで終わり、終戦まで鉄道警備に服した。終戦後は、新郷に集結して新設道路工事にかり出された。昭和21年3月新郷から鉄道で上海まで行き、上海から船で佐世保へ4月に復員した。
更新日:2022年02月01日