24.「私の一生の思い出」小川よしのさん
体験記録-24
過去を思い出せばあの戦争中、私は東京は神田栄町といって上野の山に近いところに住んでおり、主人は召集で戦地におり、母は青果市場の中にお店を出しておりましたので私は幼い子供二人を抱えていて毎日が苦難の続きでした。空襲警報が鳴り渡ると、伝令により防空壕へ急いで入る始末で大変でした。B29が飛んでくると上野の山で大砲の音が地響きして、生きた心地もなく震えておりました。静かになり外へ出ると皆さんが口々に神田に爆弾が落ちて家ごと吹き飛ばされて人が大木にぶら下がって亡くなっていた等と聞かされて、恐ろしさに見も心も沈んで、何とも言い様がありませんでした。毎日のように空襲警報が鳴るので子供のことが心配で夜も眠れず、朝一番列車で実家茨城へ逃げました。列車は満員で窓に人がぶら下がって走る有様でした。それから間もなくお店と我が家が焼失してしまい、実家に皆でお世話にもなれず、筑波山中に祖母がおりまして一軒空いているからとのことでそちらに移りました。当時は食糧難でしたので、疎開者の方は物々交換したり、ある人は山で自殺してしまった方もありました。本当にお気の毒でした。生活するのが大変でした。私はおかげさまで親類がありましたので食糧には困りませんでしたが、慣れない農家のお手伝いをして食糧を頂いて山道を夜登って帰ることがしばしばでした。子供はおなかを空かして泣いていたこともありました。時々B29が上空を飛んで東京方面へ向かって行くのを見て心配しておりました。終戦後東京の我が家を見に行きましたが、一面焼け野原、なんと無残な姿だと泣いてしまいました。戦争の恐ろしさは本当に悲惨なものです。家もなく身寄りのない方達をトラックで今日も一台野道へ置いていったよ、などと町の人達が話しておりました。その方達は山を登って来て山道に面した所へ防空壕みたいに穴を掘って住家を造っておりました。日中は農家へ食糧や衣類を貰いに行き生活をしておりました。都会から逃れていらっしゃる方が多くなりましたので、引揚者のためホテルを明けて寮になりましたので私もそちらへ入れていただき、その方達と一緒に暮らすようになり、お互いに助け合い苦しみながらも思い出話に夜は楽しかったです。穴倉生活もだんだん慣れてきましたら夜になるとドラム缶にお風呂にして入り、きれいになって私たちの所へ遊びに来るようになり、農家より頂いたお茶や野菜を持ってきてそれを皆さんに分けて下さるのです。おかげで皆さん大助かりでした。すっかりお友達になり、先生や画家、商売をしていた方、様々な方で、戦争のお話しやら思い思いの話しで毎晩楽しみでした。生活のためなら何でもできるものだとつくづく考えさせられました。あの時代の方達も今は苦労のおかげで毎日を立派に暮らしていらっしゃることと思います。私達も皆さんで田んぼへいなごやたにしを取りに行ったり、たくさん取って坂を登り毎日苦しみながらも思い出の毎日でした。取ってきたものをきれいに料理して仲居さんに頼んで旅館に売っていただき、小遣い稼ぎをしました。私は親類よりたばこの葉を買ってきて、夜はたばこ巻きをしたり、さつまいもを買ってきて水飴を作ったり、生活の智恵と申しましょうか、それを母が市場へ売りに行き本当に助かりました。今、老いてみますと生活のためなら色々と智恵も浮かんで参りますし、本当によくやったと思います。終戦になっても東京へは帰る気もなく、7年間山暮らしをしていました。主人は三菱重工に勤めておりましたので縁がありまして昭和24年に大和へ参りました。その当時、大和も田舎でした。私も幸い良いお友達に恵まれまして色々お世話になり、お風呂に入れて頂いたり家まで貸していただいて本当に感謝しております。私も若い時、母に女は技術を身に付けておきなさいといわれて、上京して和裁を身に付け修行いたしました。おかげさまで大和へ参りますと同期に呉服屋さんを紹介されまして毎日のように仕事の山でした。朝早くから夜遅くまで働き、忘れもしない暮れの忙しい時、長男が車に轢かれ、足を折ってしまい、相模原の国立病院へ入院することになってしまいました。仕事は山ほどあり、頼むところもなく、病院へ持って行き、病院で仕事を続け全部仕上げてしまいました。看護婦さんが驚いておりました。本当に夢中でやりました。少しくらい具合が悪い時でも休むことなく早く自分の家が欲しくて夢中でした。おかげで7年目に我が家を持つことができ、本当にうれしくて涙が出ました。健康にも恵まれ主人も真面目だったので本当に幸せでした。人は目的を持つことが第一です。戦争のおかげで忍耐力と我慢を身に付けたのだと思います。私たちの時代と現在は天と地の変わりようです。欲しいものは何でも手に入るし、余りにも自由主義で私達には考えられないことが多すぎます。修身と道徳を学んで欲しいと思います。早く世界中が平和になって再び戦争など起こさないような政治をして頂きたいと思います。私も満83歳になり人生も短いので、これから先有意義な1日1日を大切に過ごしていきたいと思います。今の所老人会長と県の友愛チーム員として少しでもお役に立ちたいと思いがんばっております。最後に国家の安全を祈願いたします。
更新日:2022年02月01日